これは、私の父である市川洋一による John Stuart Mill "On Liberty"(自由論) の翻訳です。コメントなどお寄せいただけるとありがたく思います。
  第一章 序説 
 この小論の主題である「自由」とは、「哲学的必然性」という誤った名称でよばれている理論に不幸にも対置されてきた、いわゆる「意志の自由」ではない。それは「市民的、社会的自由」のことであり、社会が個人に対して正当に行使しうる権力の本質と限界の問題である。この問題は、それについてまとまった論述も論議もほとんど行われていないが、それが潜在していることによって現代の実践的な論議に深い影響を及ぼしていて、やがては将来のもっとも重要な問題となる可能性のあるものである。これはこと新しいどころか、ある意味ではほとんど最古の時代から人類を二分させてきた問題であった。だが今日比較的文明の進んだ人びとが置かれている状態のもとでは、この問題は新たな条件の下に現われ、これまでとは違った、より根本的な取り扱いを必要としている。
 自由と公権力との闘争は、われわれが極めて早くから熟知している一部の国の歴史――とくにギリシャ、ローマおよびイギリスの歴史――においてもっとも顕著に見られる。古代においては、この闘争は、人民または人民中のある階級と政府との間に行われていて、自由とは、政治的支配者の圧制からの保護を意味していた。支配者は、(ギリシャの民主的政府を除けば)、彼らが支配している人民とは必然的に敵対的地位にあるものと考えられていた。支配者は統治の主体である一個人、一部族、あるいは一身分であって、彼らはその権力を相続または征服によって取得した。いずれにせよ、彼らは被治者の意向によって権力を掌握したのではなかった。被治者は統治者の権力の圧制的な行使に対して、さまざまな予防策を講じたであろうが、統治者の主権を奪おうとはしなかったし、おそらくはそれを望んでもいなかった。統治者の権力は、必要ではあるが、同時に極めて危険なものと考えられていた。すなわち外敵に対して用いられるのと同様に、人民に対しても用いられる一つの武器と考えられていた。人民の中の力の弱い人びとが無数の禿鷹の餌食になるのを防ぐためには、それら禿鷹どもを抑えるこ・ニを任務とするいっそう強い猛禽の存在が必要だった。だが猛禽の王といえども、弱者の群を餌食にしようとする点では、他の猛禽どもに決して劣るところはなかった。そのためその嘴と爪に対して不断に防御の態勢にあることが絶対必要であった。したがって憂国の士たちの目的とするところは、支配者が人民の上に行使しようとする権力に対して制限を設けることであった。この制限が彼らの意味する自由であった。それは二つの道をとった。第一は政治的自由または権利と呼ばれ、ある種の公権力不入権を認めさせることである。そしてこのような不入権の侵害は、支配者の義務違反と見なされ、実際に不入権が侵害されれば、一部的な反抗または全般的な反乱が容認されると考えられた。もう一つの、概して前者よりも後になって現われた方策は、憲法による抑制の確立であり、これによって人民もしくは一定の団体――人民全体の利害を代表するものと考えられた団体――の同意が、比較的重要な統治権の行使に必須の条件とされた。権力制限のこれら二つの方式のうち第一のものに対しては、たいていのヨーロッパ諸国の支配権力は多かれ少なかれそれに従わざるをえなかった。第二の方式については、そうはいかなかった。そこで、この第二の方式を達成すること、それがある程度達成されている場合にはそれをいっそう完全なものにすることが、あらゆるところにおいて自由を愛する者の主たる目的となった。そして人びとが一つの敵と戦うために他の敵を利用することで満足し、あるいは君主の暴政に対して多少とも有効な保障が得られる限りその統治に満足していた間は、その志望をそれ以上に押し進めることはなかった。
 だが人間生活の進歩とともに、統治者が人民と利害の点で対立する独自の権力であることが本来のあるべき姿とは考えられなくなる時代が来た。国家の統治者は、人民が欲するままに解任できる、人民の権力の受託者または代理者である方がはるかに優っているようだと、人びとは考えるようになった。この方法だけが、政府の権力の濫用によって人びとの不利益を招くような事態の回避を完全に保証してくれると思われた。民衆の政党が存在するところでは、選挙によって一時的な統治者を決めるというこの新たな要求が、漸次これらの政党の顕著な努力目標となり、それは統治者の権力を制限しようとするこれまでの努力に相当程度とって代るようになった。統治権の出どころを被治者の定期的な選択におこうとする・アの闘争が進むにしたがって、一部の人びとは、権力自体の制限にあまり重きをおき過ぎたと思うようになった。このような制限は、人びとの利害とはつねに正反対の利害を持っていた統治者に対する方策だったのである。今や求められているのは、統治者は人民と一体であるべきだ、すなわち統治者の利益と意思は国民の利益と意思でなければならぬということであった。国民は自分自身の意思から身を守る必要はない。国民が自分自身に対して圧制を行うおそれはありえない。統治者に国民に対してはっきりと責任を負わせ、統治者が国民によって迅速に解任されるようにする。そうなれば国民は統治者に安んじて権力を託し、その権力の行使の仕方について国民の方から指示することができるだろう。統治者の権力は、国民自身の権力が集中されて行使に便利な形態をとったものにすぎない。このような考え方、むしろこのような感じ方とも呼ぶべきものは、イギリスを含め、前世代のヨーロッパ自由主義に共通したものであったし、ヨーロッパ大陸の自由主義においては今なお有力である。その存在が問題視されることのないような政府の場合でもその行動には一定の限界を設けるべきだとする人びとは、ヨーロッパの政治思想家の間ではひときわ目立つ例外的存在である。統治者の権力は国民自身の権力だというこのような感情は、わが国においても、一時これを助長していた諸事情がそのまま継続していたとすれば、今日もなお優勢であったかもしれない。
 だが政治上および哲学上の理論においては、個人の場合と同様、失敗の際には人の目をまぬかれるかもしれない欠陥や弱点が、成功によってかえって明るみに出るものである。人民は自分自身に対する自らの権力を制限する必要はない、というこの考えは、民主政治が単に夢想の対象であったり、書物の上での遠い昔の存在にすぎなかったころには、公理のように思えたかもしれない。それにこの考えは、フランス革命のときのような一時的な異常行動によっては必ずしも動揺はしなかった。このような行動のもっとも忌まわしいものは、少数の簒奪者の仕業であったし、またこのような行動は、いずれにしても民主的制度の恒久的な作用ではなく、君主と貴族との圧制に対する突発的、痙攣的な暴動だったからである。やがて民主的共和国は地球表面の大きな部分を占めるに至り、自らを国際社会のもっとも有力な一員と感じるようになった。一方選挙による責任政治は、重要な事実の存在にと・烽ネういろいろな監視と批評を受けざるをえないことになった。そして今や「自治」といい「人民の人民自身に対する権力」というような文句は、事の真相を現わしていないと思われてきた。権力を行使する「人民」は、必ずしも権力を行使される人民と同じではない。また、いわゆる「自治」なるものは、各人が自分自身によって統治されることではなく、各人が他のすべての人びとによって統治されることである。さらにまた、人民の意思は、実際には人民の最多数の部分、またはもっとも活動的な部分の意思、すなわち大多数者、または自己を大多数者として認めさせることに成功した人びとの意思を意味している。したがって人民は人民の一部を抑圧しようとするかもしれないのである。そしてこのような抑圧に対して予防策が必要なことは、他のいかなる権力の濫用に対する場合とも異なるところはない。それ故、個々人を支配する政府の権力の制限は、権力の保持者が人民――すなわち人民の中の最強の政党――に対して正式に責任を負っているときにおいても少しもその必要性を減ずるものではない。このような物の見方は、思想家の知性にも、またその現実の利害――もしくは利害と思い込んでいるもの――がそもそも民主制と相容れないヨーロッパ社会の有力な階級の性向にも、等しく訴えるところがあったため、何の困難もなく受け入れられた。そして今や政治的問題を考える際には、たいていの場合「多数者の暴政」は社会としても警戒が必要な害悪の一つに数えられるようになった。
 多数者の暴政は、他の暴政と同様、最初は、主として官憲の行為を通じて行われるものと思われていたし、今でも一般にはそう思われている。だが思慮深い人びとは、社会自らが暴君であるときには、――社会を構成している個々人の上に集団としての社会が君臨しているときには――暴政遂行の手段は、官憲の手によって行われる行為のみには限られないことを知った。社会は自己の命令を自ら執行することができるし、現に執行しているのである。社会が正しい命令ではなく、誤った命令を出し、社会が干渉してはならない事項について命令を出すならば、さまざまな政治的圧制よりも一そう恐しい社会的暴政が行われることになる。社会的暴政は必ずしも政治的圧制の場合のような厳しい刑罰をともなってはいないが、生活の細部にまではるかに深く浸透し、魂そのものを奴隷化し、それを逃れる方法はほとんど残されていないからである。したがって・ッ憲の圧制からの保護だけでは十分ではない。優勢な意見や感情の圧力、法律上の刑罰以外の方法によって自己の思想や慣習を、それに反対する市民に対して行為の準則として強制しようとする社会の傾向、自己のやり方と一致しないあらゆる個性の発展を妨害し、できればそのような個性の形成を阻止し、あらゆる人びとの性格が社会自身の性格を範として形成されるようにしようとする社会の傾向、このような圧力や傾向からの保護がさらに必要となってきている。個人の独立に対する集団的意見の合法的干渉には限界がある。この限界を見出し、この限界が侵害されないように維持することが、政治的専制からの保護と同様、人間生活をよい条件の下におくために必要不可欠のことなのである。
 以上の主張に対して全体として異論を称える者はおそらくないだろうが、その限界をどこにおくべきか、個人の独立と社会の統制との適切な調整はどのように行うべきか、という実際的な問題については、ほとんどが今後の解決に待たなければならない。人間は自分の生を生きるに値いするものにするためには、どうしても他人の行為にいろいろと制限を加えざるをえない。したがって第一には法律によって、法律の施行に適さない多くの問題については世論によって、一定の行為の規則が課せられなければならない。これらの規則はどういうものでなければならないかは、人間生活における主要な問題である。だが、少数の極めてはっきりした場合を除けば、これは、解決がほとんど進展を見なかった問題である。二つの時代がこの問題を同じように解決したことはかつて一度もなかったし、国の場合にしても事情はほとんど同じである。したがって、ある時代またはある国のとった解決策は、他の時代や他の国からは奇異の念をもって見られた。だが、いかなる時代いかなる国の人びとも、この問題が難問であるとは思わず、あたかも人類の意見がつねに一致してきた問題であるかのように考えている。彼ら自身の間に行われている規則は、彼らにとっては自明かつ正当であるように見える。このようなほとんど普遍的ともいえる錯覚は、習慣の持つ魔術的な力の一例であり、習慣というものは諺にいうように、第二の天性であるばかりか、つねに第一の天性と誤解されている。行為の規則がいかなるものでなければならないかという問題は、お互いの間では何らその理由を説明する必要はないものと一般に考えられている。そのため人間が互いに課している行・ラの規則について、いかなる疑念も抱かせないようにするこのような習慣の力は、ますます完全なものとなる。一般の人びとは、この種の問題に関しては、各人の感情は条理以上のものであり、条理を不必要にするものであると信じるように習慣づけられ、また哲学者たらんとする一部の人びとによって、そのような信念をもつようにすすめられてきた。人間の行為をどのように規制すべきかについて各人が考える際の実際のよりどころは、自分および自分が共鳴している人びとが望むような行為がすべての人に要請されているはずだという、各人の心の中に潜んでいる感情である。もちろん、自分の判断の規準は自分自身の好みであるなどとは、誰も自認しようとはしない。だが、行為の問題に関するある意見が確固たる理由にもとづいていない場合は、それは個人の好みとされるしかない。また理由が存在する場合でも、それが単に自分の好みと同じような他人の好みにかなうということであれば、一個人の好みの代りに多数の人びとの好みをもってきただけのことである。だが普通の人の場合は、その宗教的信条の中に銘記されているものを除けば、多数の人びとが自分自身の好みと同じ好みをもっているということは、道徳、趣味、礼儀に関する彼の考えを支える十分な理由となるばかりか、たいていの場合唯一の理由となり、さらには宗教的信条の解釈においても主たる指針となるのである。したがってどのような行為が称賛され、どのような行為が非難されるかについての人びとの意見は、他人の行為について彼らが望むところをいろいろに動かす多種多様な原因によって左右される。そしてこのような原因は、他の問題の場合に彼らの願望を左右する原因と同様、その数は非常に多い。それは時には彼らの理性であり、時には彼らの偏見や迷信であり、あるときには社会的感情であり、あるときには嫉妬、傲慢、軽蔑などの反社会的感情であることもよくある。だが、通例は彼らの自分自身のための欲求と恐怖――道理にかなったまたは道理にあわない利己心――である。およそ優勢な階級の存在しているところでは、その国の道徳の大部分は、その優勢な階級の階級的利益および階級的優越感から来ている。スパルタ人と奴隷、農園主と黒人、君主と家来、貴族と平民、男子と女子、これらそれぞれの間を律する道徳は、大部分このような階級的利益および階級的感情の産物であった。このようにして生み出された感情は、また優勢な階級の成員相互間の道・ソ的感情に反作用を及ぼす。一方かつて優勢であった階級がその勢力を失ったところ、あるいは優勢な階級が人望を失ったところでは、一般の道徳的感情にはしばしば、優位者に対するいらだたしげな嫌悪感が強く見られた。法または世論によって強制されてきた「・・・すべし」または「・・・すべからず」という行為の規則を決定するもう一つの原理は、俗世界の君主や神々の好むところ、厭うところとされているものに迎合しようとする人間の奴隷根性であった。この奴隷根性は本質的には利己的なものではあるが、偽善ではなかった。これによって心底から嫌悪感をかきたてられた人びとは、魔術者や異端者を焚殺した。以上のような多くの低俗な要因の間にあって、社会自体の明白な利害も、もちろん道徳的感情を指導する上で大きな役割を果した。だが、この場合においてもその役割は、理性的に考えてとか、社会自体のためというよりもむしろ、社会の利害をきっかけとして起ったさまざまな共感や反感の結果としてであった。そしてまた社会の利害とほとんど、またはまったく関係のない共感や反感が、道徳の確立に際して、社会自体の利害そのものと同じ大きな力を発揮したのである。
 このようにして、主として社会または社会の一部有力層の好悪の感情が、法律または世論による制裁の下に一般人が遵守すべきものとして定められた規則を事実上決定してきた。そして思想と感情の点で社会に一歩先んじていた人びとも、細目の点についてはこのような事態と衝突することがあったとしても、大体において原則としてこのような事態を放任してきた。彼らは、社会の好き嫌いの感情をもって個人の服従すべき法とすべきかどうかを問題とするよりも、むしろ社会はいかなる事物を好み、いかなる事物を嫌うべきか、という問題の討究にあたってきた。彼らは自由を守るために、あまねく異端者を糾合して共通の大義を主張するよりも、彼ら自身が異端的見解を抱いている特定の問題について、人びとの感情を一変させようとしてきた。ほとんどの個人が道徳的動機から比較的高潔な態度をとり、それを堅持してきた唯一の領域は宗教的信仰の領域である。この宗教の場合は多くの点で教訓的であるが、いわゆる道徳感なるものの誤りやすさの極めて顕著な実例を提供しているものとして見るときとくに教訓的である。すなわち、誠実な狂信家の抱く「神学者間の憎悪」は、道徳感覚の少しの曖昧さも容赦しない場合の一つだからである。普遍的・ウ会を自称していたカトリック教会の束縛を初めて打ち破った人びと(プロテスタント)も、多くの場合カトリック教会と同様、宗教的意見の違いを許容しようとはしなかった。だがいずれの派にも完全な勝利をもたらすことなく激烈な闘争が終りを告げ、各教派や宗派はその希望を、すでに占拠していた地盤を確保することに限定せざるをえなくなった。そして少数派の人びとは、自分たちが多数派となる機会がなくなったのを見て、自分たちが改宗させることができなかった多数派の人びとに、信仰の違いを容認するよう懇願しなければならなかった。したがって、社会に反対する個人の権利が原理的に広く主張され、意見を異にする者の上に権力を行使しようとする社会の要求が公然と論難されたのは、ほとんどこの宗教という戦場だけであった。現在世界が享受している宗教的自由をその人たちに負っている偉大な著作者たちは、ほとんどが良心の自由を不可侵の権利として主張し、人びとが自分の宗教的信仰について他人に対して責任を負うことを断固として拒否した。だが、人間としては、いやしくも自分が真に関心をよせている事項については、不寛容は極めて自然なことであるから、宗教的無関心が重んぜられ、神学的な論争によって平和が乱されるのを好まないところを除けば、宗教的寛容は、ほとんどどこでも実現されないままであった。もっとも寛容な国々においても、ほとんどすべての宗教的人間の心の中では、寛容の義務は暗黙の留保つきで認められていたのである。ある人は、教会行政の問題については反対意見に寛容であろうが、教義の問題についてはそうではないだろう。またある人は、天主教徒やユニテリアン教徒でない限りは、あらゆる人びとに寛容であるし、ある人は啓示宗教を信じるすべての人びとに寛容である。また少数の人びとは、その慈悲心をもう少し拡大するが、神と来世を信じない人びとに対しては寛容ではない。多数者の感情が今なお純真で熱烈なところでは、人びとに対する服従の要求はほとんど弱められることはなかった。
 イギリスにおいては政治史上の特別な事情により、ヨーロッパの他の大多数の国々と比べて、世論のくびきはおそらく重いだろうが、法律のくびきはむしろ軽い。そして立法権力または行政権力が私的行為に直接の干渉を加えようとすることに対しては、極めて警戒的である。ただしそれは、個人の独立に対する正当な尊重に基づいているというよりも、むしろ政府を人民とは反対・フ利害を代表するものと見なす習慣がいまなお存続していることによるのである。人民の大多数は今だに政府の権力を自分たちの権力と感じ、政府の意見を自分たちの意見と感じるようにはなっていない。多数者が実際このように感じるならば、個人の自由は、すでに世論からの侵害にさらされているのと同様、おそらく政府からの侵害にもさらされるであろう。だが、従来法律の統制を受けることのなかった事項について、新たに法律によって個人を統制しようとするならば、それに対しては今でも大きな反感がいつでもわき起こるであろう。しかもそれについては、その問題が法律上の統制の正当な範囲内にあるか否かは、ほとんど区別されることはない。したがって、この感情は大体において極めて健全なのだが、この感情が向けられる対象によっては、十分な根拠の上に立っている場合もあれば、見当違いの場合も同じように見られることだろう。政府の干渉の適不適をたえず吟味するための広く受け入れられた原理なるものは、実際は存在しない。人びとは各自の個人的選り好みにしたがって決定する。ある人びとは、何かなされるべき善、もしくは正されるべき悪を見つけ出したときにはいつでも、政府に処置をせまるであろう。一方他の人びとは、たとえ人びとの利益になることでも、政府の統制の手がさらに加わることになるくらいなら、むしろどれほど大きな社会的害悪でも耐え忍ぶ方を選ぶ。このようにして人びとは、個々の場合について政府の処置を要望するか、拒否するかを、彼らの感情のこのような一般的志向にしたがって決めることになる。さらに、政府のなすべき仕事として提議されている特定の事項に対する関心の程度にしたがって、あるいはまた政府が自分の好むような方法でやってくれると思えるか思えないかにしたがって、態度を決めることもあるだろう。だが、何が政府の仕事としてふさわしいかについての一貫した意見によって態度を決める場合は極めて稀れである。このようにルールや原理が欠如している結果、現在では政府の処置を要望する場合も、拒否する場合も、同じように誤っている場合がしばしばあるように思われる。すなわち政府の干渉を不当に要望する場合も、不当に糾弾する場合も、その頻度においてはほとんど変らないのである。
 この小論の目的は、強制や統制のかたちでの、個人に対する社会の対応の仕方を絶対的に規制するものとして、一つの極めて単純な原理を主張することにある。その際・pいられる手段は、法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論による精神的強制であるかを問わない。その原理とは、人間がその仲間の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することを正当づける唯一の目的は自己防衛にあるということである。また文明社会の成員に対して、その意思に反して権力を行使しても正当とされる唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるということである。単にその人自身の物質的精神的な幸福のためというのは、その個人に対する干渉の十分かつ正当な根拠ではない。ある行為をなすこと、またはさし控えることが、その人のためになるとか、その人を幸福にするとか、また、はたから見て賢明であり正しいことであるとかの理由で、そのような行為をしたり、さし控えたりするよう当人を強制することは決して正当ではない。これらの理由は、その人に諫言し、理を分けて話し、説得し、あるいは懇願するためには十分な理由ではあるが、彼に強制したり、応じなかった場合に何か害を加えたりするのには十分な理由とはならない。このような干渉が是認されるためには、彼に思いとどまらせるのが望ましい当のその行為が、誰か他の人に害をもたらすと思われるものでなければならない。いかなる人の行為でも、その人が社会に対して責を負わねばならない唯一の部分は、他人に関係する部分である。単に当人自身だけに関する部分については、彼の独立は、当然絶対のものである。個人は自分自身に対して、すなわち自分自身の肉体と精神に対しては、その主権者なのである。
 以上の所論は、能力の成熟している人びとにのみ適用されるものであることは、いうまでもないだろう。われわれは、小児について述べているのではなく、また法律で男女の成年として定められている年齢以下の若い人びとについて述べているのでもない。他の人びとの世話になる必要のある人びとは、外からの危害から保護されなくてはならないと同時に、当人自身の言動からも保護されなければならない。同じ理由からわれわれは、人種自体が未成年の状態にあると思われる未発達の社会を考慮に入れる必要はないであろう。自発的進歩を妨げている初期の困難は極めて大きいから、これを克服するための手段については選択の余地はほとんどない。したがって改革精神の横溢している統治者には、他の方法では達成し難いと思われる目的については、考えられるいかなる方法の利用も正当化される。その目・Iが未開人の改善にあり、現実にこの目的が達成されることによってその手段が正当化されるとすれば、専制政治は未開人をとり扱うための正当な統治方法である。一つの原理としての自由は、人びとの改善が自由で平等な論議によって行われるようになるまでは、いかなる事態に対しても適用されることはできない。そのときまでは、彼らが幸いにしてアクバーやシャルマーニュのような人物を見出すことができれば、そのような人物に対して絶対的な服従を捧げるほかに途はない。だが、人びとが信服や説得を通じて自らを改善していく能力を得るようになれば(われわれがここでとり扱う必要のある諸国民は、すべて、すでに久しい以前にこの時期に到達している)、直接的な形での強制、あるいは応じない場合に苦痛や罰を加えるという形での強制は、当人自身の幸福のための手段としてはもはや認められず、ただ他の人の安全の保障のためにのみ正当と認められるのである。
 効用とは無関係な、抽象的な正義という観念が、私の議論にとってどれほどプラスになろうと、ここではそれを援用することはしない、ということを述べておくのが適当だろう。私は、効用をすべての倫理問題に関する究極のよりどころと考えている。だが、その効用とは、進歩する存在としての人間の恒久的利益に基づく、もっとも広い意味における効用でなければならない。このような恒久的利益から見て、他人の利害に関係のある各個人の行為についてのみは、各個人の意思を外からの統制に服させることが認められるのである。もし何びとかが他人に有害な行為を行うならば、その場合は、反証のない限りあるいは法律により、法律上の刑罰の適用には問題がある場合には社会の非難によって、彼を処罰することが一応認められる。一方、強制的に行わせることが認められる、他人の利益になる積極的な行為も、多数存在している。たとえば、法廷での証言、自分が保護を受けている社会のために必要な共同防衛などの共同作業の分担、同胞の生命を救ったり、防御力のない者を虐待から保護するため干渉の手をさし伸べるなどの個人的な慈善行為である。これらのようにそれを行うことが明らかに人間たるものの義務である場合には、それを行わなければ、その人は当然社会に対して責を負わされることになる。人は作為によってだけでなく、不作為によっても他人に損害を与えるが、いずれの場合も、彼は当然その損害の責を被害者に対して負わなければならない。な・驍ルど不作為の場合には作為の場合よりも、強制処置についてはいっそう慎重な態度が必要である。他人に害を加えたことに対して責を負わせるのが通例であって、害を防止しなかったことに対して責を負わせるのは、どちらかといえば、むしろ例外である。だが、このような例外が明らかにどうしても正当とされなければならない重大な場合が数多く存在する。外部とかかわりのある一切の事項において、各個人は利害関係者に対し、また必要ある場合は、それら利害関係者の保護者としての社会に対して法的に責任を負うべき立場にある。ときには何らかの理由で責任を負わせずにおく方がよい場合もしばしばあるが、その理由は、その場合の特別な事情による。すなわち、社会がそれなりのやり方で個人に規制を加え責任を負わせるよりも、当人の自由裁量に任せた方が、大体において当人がよりよい行動をとる可能性が高いような場合であるか、あるいは、規制を加える方が、規制を加えることによって防止しようとする害よりも、かえってより大きな害をもたらすように思われる場合かの、いずれかである。このような理由から責任を負わせることができない場合には、行為者自身の良心が空席の裁判官の席に進み出て、外的な保護を受けられない他の人びとの利益を進んで擁護しなければならない。そしてこの場合は、その個人は判決について同僚たちと責任を分ちあうわけにはいかないから、それだけにいっそう厳正に自分を律しなければならないのである。
 だが、個人とは区別された社会が、個人の行動に何らかの利害関係をもつとしても、それは単に間接的なものにすぎない個人の行動の領域がある。その中には、当人自身のみに影響のある個人の生活と行動、あるいは、たとえそれが他人に影響するとしても、その他人は別にだまされたのではなく、自ずから進んで同意し、それにかかわっているような、そういう個人の生活や行動のすべてが含まれる。当人自身「のみ」に、というとき、それは「直接に」そして「まず第一に」ということを意味する。というのは、およそ当人自身に影響することは、彼自身を通じて他の人びとにも影響するかもしれないからである。この起るかもしれない事態を根拠とする反対論については、後で考察が加えられるであろう。そういうわけで、この個人自身にのみかかわりをもつ行動の領域こそ、まさに人間の自由の固有の領域なのである。第一に、それは意識という内面的領域を包含し、もっとも包括的・ネ意味における良心の自由と、思想および感情の自由、さらに実際的もしくは思弁的な問題、すなわち科学的、道徳的、神学的な問題のすべてに関する意見と所感との絶対的な自由を要求する。意見を発表し出版する自由は、他人に関係する行為であるから、異なる原理の下にあるものと思われるかもしれない。 だが、この自由は、思想そのものの自由とほとんど同じ重要性をもつものであり、また主として同一の理由に基づいているから、実際上は思想の自由と切り離すことはできない。第二に、この原理は、好みとその好みを追求することの自由、すなわち、われわれ自身の性格に適合した生活設計をする自由、結果を甘受する限りはわれわれの好むとおりに行動する自由を要求する。この自由は、われわれのなすことがわれわれの同胞を害しない限り、たとえ彼らがわれわれの行為を愚かであるとか、道に外れているとか、誤っているとかと思おうとも、彼らから邪魔されることのない自由である。第三に、各個人のこの自由の当然の結果として、同じ制限のなかでの個人相互間の団結の自由がある。すなわち、他人に害を与えない限り、いかなる目的のために団結することも自由である。この場合、団結する個人は成年で、強制されても、だまされてもいないということが前提となっている。
 これらの自由が大体において尊重されていない社会は、その政体がどのようなものであろうと、自由な社会ではない。またこれらの自由が絶対無条件に存在していない社会は、完全な自由社会ではない。他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を妨害しようとしない限り、自分自身の幸福を自分自身のやり方で追求することができる自由、これこそが自由の名に値いする自由である。各人は肉体の健康であると、精神や魂の健康であるとを問わず、各人自身の健康の正当な守護者である。人間は、他の人が幸福と感じているような生活を強いられるよりも、自分にとって幸福と思われるような生活を各人それぞれにさせておく方が得るところが多い。
 以上の所論は決して新奇なものではなく、人によっては自明の感を抱くかもしれないが、現在の世論と実践の一般的傾向にこれ以上に背馳している理論はない。各社会はそれぞれの見方に応じて、人民を、その社会がかかげる社会的な優秀性の観念ばかりでなく、個人としての優秀性の観念にも適合させようと努力してきた。古代の国家は、公の権力に私的行為のあらゆる部分を規律する権利があると考え、古代の哲学者たちもそれを是認した。その根拠とするところは、国家は国民一人一人の肉体的、精神的修練の全体に対して深い関心を有しているというのである。強力な敵国に囲まれ、外からの攻撃や国内の騒動によってつねに転覆の危険に脅かされている小規模の国家においては、このような考え方も是認されたかもしれない。このような国家においては、たとえ短期間でも気力と自制心を弛緩させればすぐに存亡にかかわってきたため、自由の有益な永続的効果を待つだけの余裕がなかった。だが、近代世界においては政治的社会の規模がいっそう広大になり、殊に霊的権威と世俗的権威とが分離(この分離によって、人間の良心の指導は、人間の世俗的な営みを支配する人びととは別の人びとの手に委ねられることになった)されたため、法律が私生活の細事にまで広く干渉することはなくなった。だが支配的意見からの逸脱に対しては、社会的な問題の場合よりも個人自身に関する問題の場合の方が道徳的な抑圧はいっそう激しかった。道徳感覚の形成にかかわってきた諸要素の中でもっとも強力な要素であった宗教は、ほとんどつねに人間の行為のあらゆる部門に対して統制の手をのばそうとする聖職政治の野心か、もしくは清教主義の精神によって支配されてきたからである。しかも過去の宗教に対してもっとも強硬な反対の立場をとってきた近代の改革者の中にすら、精神に対する支配の権利の主張においては、どの派や宗派にも決して遅れをとることのない者が見られた。コント氏の如きはとくにそうであって、彼の「実証的政治学体系」の中に述べられている社会組織は、個人に対する社会の専制を確立しようとするもの(法律的手段よりもむしろ精神的手段によってではあるが)であり、しかもその専制は、古代の哲学者の中でももっとも厳格な戒律主義者であった人の政治的理想の中に描かれていたものをも凌駕するほどである。
 個々の思想家の個人的な信条に加え、世間全般に、世論の力により、また法律の力によってさえ、個人に対する社会の権力を不当に伸長しようとする傾向がますます増大してきている。そして、世間に起っているすべての変化は、社会を強化し、個人の権限を縮小しようとする傾向を示しており、それからするとこの個人の権限に対する侵害は、自然に消滅していくどころか、ますます恐るべきものになっていく害悪なのである。人間が統治者の立場にあるときと、市民の立場にあるときとを問わず、自分自身の意見と好みを行為の準則として他人にもおしつける傾向は、人間性に付随する最善、最悪の両感情に強く支えられているため、権力を持たせないということ以外には、この傾向を抑えることはほとんど不可能である。しかもこの権力なるものは、今や減退しないで、かえって増大してきているのであるから、道徳的確信に満ちた強固な防壁を築きえない限り、われわれは、世界の現状においては、この自分自身の意見と好みを行為の準則として他人にもおしつける傾向はますます増大していくものと思わなければならない。
 さて議論の便宜のためには、直ちに全般的な論題に入る代りに、まず最初に、その中の一つの部門――ここに述べられた原理が、現在の世論によって、十分ではないまでもある程度までは認められている一つの部門――に、われわれの考察を限定してみるのがよいだろう。その部門とは思想の自由だが、これと同性質の、言論および著作の自由を、これと切り離して論ずることはできない。これらの自由は、宗教的寛容と自由な諸制度を公言しているすべての国の政治道徳の相当部分を形成している、だがこれらの自由の基礎をなしている哲学的、実践的な根拠は、おそらく一般の人にはそれほどよくは知られていないし、また世論の指導者の多くにも期待されているほど十分には評価されていないと思われる。これらの根拠は、それが正しく理解されれば、自由の問題の一部門である思想言論の自由だけでなく、より広汎な範囲に適用することができ、自由の問題のこの部分の十分な考究は、残りの部分に対するもっともよい序論となるだろう。したがって私のこれからいおうとしているところに何の新味も見出さない人びとも、すでにこの三世紀のあいだしばしば論議されてきた問題について、私があえてもう一度論議を重ねてもお許しいただけることと思うのである。
  第二章 思想および言論の自由について
    腐敗した政府や暴虐な政府に対する防衛手段の一つとして、「出版の自由」の擁護が必要とされる時代はすでに過ぎ去った、と考えてもよいだろう。人民と利害を異にしている立法府や行政府が人民に意見を指示したり、人民に聞かせてもよい教義や主張を決定したりするのを、そのまま認めておくことに対しては、もはや今日では改めて反対論を展開する必要はないだろう。その上、自由の問題のこの面については、これまで著述家たちがしばしば堂々の論を展開してきたところであるから、ここでとくに論じる必要はないだろう。イギリスの法律は、出版の問題に関しては、今日に至るもなおチューダー朝のときと同様、屈従的なものだが、大臣や判事たちが叛乱を恐れるあまり一時的に常規を逸するような挙に出る場合以外は、政治上の論議に対してこのような法律が実際に発動されるおそれはほとんどない。また概していえば、立憲諸国の場合は、政府が、国民に対して完全に責任を負っていようがいまいが、意見の発表をしばしば統制しようとするようなことはあまり考えられない。ただし、政府自らが社会全体の不寛容の精神の手先となって意見の発表を統制しようとする場合は別である。そこで、次に、政府が完全に国民と一体であり、したがって、国民の声と思われるものと一致しない限りは、いかなる強制権も行使しようとはしないという場合を考えてみよう。だが、この場合においても、私としては、国民が自分自身でやるか、それとも政府の手でやるかを問わず、国民がこのような強制権を行使する権利を有しているとは思わない。このような権力そのものが不法なのである。最善の政府といえども、このような権力を持つ資格のないことは、最悪の政府と異なるところはない。このような権力は世論にしたがって行使される場合でも、世論に反対して行使される場合と同様、あるいはそれ以上に有害である。たとえ一人を除き全人類が同一の意見をもっていたとしても、人類がその一人を沈黙させることが不当なのは、一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていた場合、その一人が全人類を沈黙させることが不当であるのと同様である。ある意見がその持ち主だけに価値のある個人的な所有物であり、またその意見に接するのを妨げられることが単に私的な害にすぎない場合、その害が単に少数の人に及ぶのと、多数の人に及ぶのとでは、多少の相違があるだろう。だが、意見の発表を抑え、沈黙を強いることによる弊害は、人類の利益が――現代の人びとの利益ばかりか、後代の人びとの利益までも――奪いとられることであり、その意見をいだいている人びとの利益よりもその意見に反対している人びとの利益がより多く奪われることになるのである。すなわち、その意見が正しい場合には、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われることになる。その意見が誤っている場合でも、人類は、同じように重大な利益――真理と誤謬との対決による真理に対するよりいっそう明白な認識と、よりいっそう鮮明な印象――を失うことになるのである。
 この二つの場合――その意見が正しい場合と誤っている場合――は別々に考察してみることが必要である。この二つの場合のそれぞれにそれに相応する明確な論拠があるからである。われわれが抑圧しようとしている意見が誤っているとは決して断言できないし、たとえ断言できるとしても、それを抑圧することは依然悪なのである。
 まず、権力によって抑圧されようとしている意見が、あるいは真実であるかもしれない場合、それを抑圧しようとしている人びとは、もちろんその意見が真理であることを否定する。だが、その人たちは絶対無謬であるわけではない。問題を全人類に代って決定し、他のあらゆる人びとから判断の材料を奪う権威が、彼らにあるわけではない。彼らがその意見が間違いであると確信しているからといって、その意見に耳をかすのを拒むというのは、彼らの確信を絶対に確実なものと同一視することである。議論を抑圧することはすべて、自分の無謬性を仮定することである。議論の抑圧に対しては、自分の無謬性の仮定という、このような平凡な論拠の上に立って非難することができるだろう。だが平凡であっても何ら差し支えはないのである。
 人類の良識のためには不幸なことだが、人類の誤謬性は、理屈の上ではつねに重視されてはいるが、実践的な判断ではまったくといっていいほど重視されていない。誰もが自分が誤り易いことを十分承知してはいるものの、その誤り易さに対して何か予防策を講じることが必要だと思っている者はほとんどいないし、自分が心から確信をもっている意見でも、それは、自分でもおち入り易いことを認めている誤まりの一つであるかもしれないなどと思う者もほとんどいないからである。専制君主や、無制限の服従を受けることに慣れている人びとは、日ごろからほとんどすべての問題に関して自分の意見に対して絶対的な自信をいだいている。これらの人びとよりも恵まれた地位にある一般の人びと、すなわち、ときには自分の意見が論駁されるのを聞き、自分の意見が間違っているときには、それが訂正されることにも慣れている人びとの場合は、自分の意見のうち、周囲のすべての人たちや、平素尊敬している人たちのいだいている意見と同じ意見に対しては無制限の信頼をおく。人は自分一人だけの判断に自信が持てなければ持てないほど、つねに「世間」一般の無謬性に盲目的な信頼をよせるようになるからである。各個人にとって「世間」とは、世間のうち彼が接触している部分、すなわち彼の属している政党、宗派、教派、社会階級を意味している。自分の祖国や自分の時代のような広範囲なものを「世間」と感じる人は、相対的には大体自由で心の大きな人といえるだろう。この世間という集団的権威に寄せる各人の信頼は、他の時代、他の国家、他の宗派、他の教派、他の階級、他の政党が昔も今もまったく逆の考えを持っていることを知っても、それによって少しも揺らぐことはない。彼は自分と意見を異にする他の人たちの世間に対して、自分の方が正しいことの責任を、自分が属する世間に負わせる。しかもこれら数多い世間の中のどれが彼の信頼の対象になるかは、単なる偶然によって決まるのであり、ロンドンで彼を国教徒にしたのと同じ原因が、北京では彼を仏教徒や儒教徒にしたのだとしても、それによって彼が悩むことはまったくない。だが、時代というものも個人におとらず誤り易いものであることは、多くの論証をまつまでもなく明らかなことである。各時代には、それぞれ後の時代から単に誤っているだけでなく、ばかげているとまでいわれた多くの意見が存在した。かつては一般に信じられていた多くの意見が、現代では拒否されているように、現在一般に信じられている多くの意見も、将来はあるいは拒否されることになるかもしれないのである。
 以上の主張に対する反対論は、おそらく次のような形をとるだろう。すなわち、誤謬の伝播を禁止しようとすることには、自分が絶対無謬であることが仮定されているとするなら、公権力が自らの判断と責任において行ういかなる行為の場合にも、それと同じことがいえるといわなければならない。判断力が人に与えられているのは、それを使用するためである。誤って使用されるおそれがあるからといって、判断力を絶対に使用すべきでない、というようなことがいえるだろうか?有害と思われるものを禁止することは、自分は無謬であると主張することではなく、たとえ誤まりをおかすことがあったとしても、自分の良心的な確信にもとづいて行動すべきであるという、人びとに課せられた義務を遂行することに他ならない。自分の意見が間違っているかもしれないというので、自分の意見にもとづいて行動することは決してしないというのであれば、われわれは自分の一切の利益を顧みずに放置し、自分の一切の義務を履行せずに放置しておかねばならないであろう。無謬性の仮定のようなあらゆる行為に対して適用される反対理由は、個々のどのような行為に対しても決して妥当な反対理由にはなりえない。できる限りもっとも真実だと思われる意見をまとめ上げること、まとめ上げるに当たっては慎重な態度をとり、衷心から正しいと確信しない限りは、決してそれを他人に押しつけないこと、これが政府ならびに個人の義務である。だが、自分の意見が正しいと確信している場合、かつて文明があまり進んでいなかった時代に、今では真実だと信じられている意見を人びとが迫害したことがあったからというので、自分の意見にもとづいて行動するのをためらい、自分が現世または来世における人類の幸福にとって危険であると心から信じている教説を自由に流布させておくというのは、良心的な態度ではなくて、卑怯な態度である。かつてと同じ過ちを繰返さないように注意しようといわれるかもしれない。だが、政府や国民は、権力の行使の対象として適当でないとはされていない事項についても過ちを犯してきた。不当な税金を課したり、不正な戦争を行ってきたりした。だからわれわれは税金を課すべきではないし、いかなる挑発があっても戦争をするべきではないということなのか?人びとも政府も能力の限りをつくして行動しなければならない。絶対確信がもてるというようなものは存在しないが、人生の諸目的を達成するのに十分な程度の確かさは存在している。われわれは自分の行動の指針として、当然自分の意見は真実だと考えるだろうし、またそう考えなければならない。間違いであり有害であるとわれわれが思っている意見を無法な人たちが広めて社会を誤まらせるのをわれわれが禁止する場合も、それ以上のことをしているわけではない。
 この反対論に対して私は次のように答える。すなわち、この反対論には無謬性よりはるかに多くのことが仮定されていると。論駁の機会は十分提供されていたにもかかわらず、しかもなお論破されていないというので、ある一つの意見を真実だと推定するのと、初めからその意見を真実なものとして、論駁することを許さないのとでは、雲泥の違いがある。われわれの意見を反駁し論破することが完全に自由であることこそ、われわれが行動するに当って自分の意見が真実であることを保証してくれる当の条件なのである。全能の神ならぬ人間としては、自分が正しいことを合理的に保証してくれる条件はこれ以外にはない。
 われわれが意見の歴史や人生日常の行状を考察するとき、これら両者がともかくも現状よりも悪くならないだろうと思うのは、何によるのだろうか?人間悟性の内在的な力によるのではないことはたしかである。自明でない問題に関しては、どのような問題についても、それを判断できる者一人に対して、九十九人まではそれを判断する能力をまったく欠いているからである。そしてその一人の能力も相対的なものにすぎない。過去のあらゆる世代の卓越した人物の大多数が、現在では誤謬であることが判明している多くの意見をいだき、また現在では誰も正当とは認めないような多くのことを行ったり是認したりしてきたからである。では全体として人間の間に合理的な意見と合理的な行為が優勢を示しているのはなぜなのだろうか?このような合理的な意見と合理的な行為の優勢が本当に存在しているのだとすれば――人間生活がこれまでずっと絶望的な状態にはなかったのだとすれば、このような優勢はたしかに存在しているに違いない――、それは、人間精神の一つの特性、知的存在もしくは道徳的存在としての人間における尊敬に値する一切のものの源泉、すなわち人間の誤りは正すことができるという特性によるのである。人間は議論と経験によって誤りを正すことができる。経験のみでは十分ではない。経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなければならない。間違った意見と実践とは、徐々に事実と論証との前に屈伏していく。だが、事実と論証が、人間の精神に何らかの効果をもたらすためには、精神の前にそれを突きつけなければならない。しかも事実の意味を取り出してくれる注釈なしに、それだけで意味が明らかになるというような事実はきわめて稀れである。それに、人間の判断の力と価値そのものは、判断が間違っている場合には匡正されうるという一つの特質によるのであるから、判断を匡正する手段が絶えず手元にあるときにのみ、それに対して信頼をおくことができる。ある人の判断が真に信頼に値するという場合、どうしてそのようになったのであろうか?それは、その人が自分の意見と行為に対する批判に対してつねに心を開いてきたからである。すなわち、彼に対する反対の言葉のすべてに耳を傾け、反対の言葉の中の正しい部分から学び、誤っている部分については、なぜそれが誤っているかを自分自身に、また時には他の人びとにも明らかにすることが、彼の習慣となっているからである。さらに、人間がある主題について完全な知識に近づくための道は、いろいろな意見の人びとのそれについての発言を聞き、さまざまな精神的性格の人びとのそれに対する見方を研究すること以外にはないということを、彼が知っているからである。いかなる賢者といえども、これ以外の方法によって知恵を得たものはなかった。これ以外のやり方によって賢明になるというのは、人間知性の本性にはありえないことである。自分自身の意見と他の人の意見とを照合することによって自分の意見を訂正し完全にするという不断の習慣は、自分の意見を実行に移すに当って疑念とためらいを生じるどころか、自分の意見に正当な信頼をおくための唯一の安定した基礎をなすものである。少なくともそれとわかる一切の反対論を承知し、すべての反対者に対して自分の意見を主張してきた以上――異論や難問を回避せず、むしろ自分から求めてきたこと、当の問題に対してどのような方面から投げかけられる光も遮断しなかったことを自分で知っている以上――彼は、同じ過程を経ていないいかなる個人や多数者の判断よりも自分の判断の方がまさっていると当然考えて然るべきなのである。
 人類中のもっとも賢明な人びと、すなわち自分自身の判断にもっとも信頼をおくことのできる人びとは、自分の判断を十分頼ることのできるものにするためには、以上のような条件を必要としていたのであるが、かの公衆とよばれる、少数の賢人と多数の愚人との混成群に対してもこれらの条件の尊重を要求することは、決して過当な要求ではないだろう。もっとも狭量な教派であるローマ・カトリック教会でも、聖者の聖列加入のときには「悪魔の代弁者」なるものの発言を認めて忍耐強くこれに傾聴するのである。人間の中のもっとも聖なる者でも、彼に対する悪魔のあらゆる非難の言葉を聞き考量した上でなければ、聖列加入という死後の栄誉を許されない。ニュートンの哲学でさえ、もしそれに対して疑いをさしはさむことが許されていないとすれば、人類はこの哲学の真理性について、現在のような完全な確信をもつことはできなかったであろう。多くの根拠に裏付けられ間違いないと信じていることも、全世界に向って、それが根拠のないことを証明せよと不断に呼びかける以外には、その確信を保証してくれる何のよりどころもない。この呼びかけに応じる者があらわれないとしても、またあらわれるにはあらわれたが、根拠のないことが証明されなかったとしても、まだまだ確実とはいえない。だが、人間の理性の現状が許す限りの最善を尽くしてきたのである。真理を把握する可能性がそこに存在していると思われるものは、何一つゆるがせにはしなかった。自由な論議の場さえ開かれていれば、たとえより完全な真理が他に存在しているとしても、人間の精神がそれを受け入れることができるようになれば、必ずその真理を見出すことができるだろう。その間われわれは、その時その時の時点で可能なかぎり真理へ近づいていると意を強くしてよいのである。これこそが誤り易い存在が到達することのできる確実性のすべてであり、またこれがそのような確実性に到達するための唯一の方法なのである。
 一方では自由な論議を肯定する主張が妥当であることを認めながら、一方ではこのような主張が「極端に押し進められる」ことには反対するというのは、実に奇怪なことである。そのような人たちには、挙げられた理由が極端な場合に対しても有効でないかぎり、いかなる場合に対しても有効ではないことが理解できないのである。彼らが疑問のあるあらゆる問題に関して自由な論議の必要を認めながら、一方ある特定の原理や教説については、それが極めて確実であるという理由から、すなわち、それが確実であることを彼らが確信しているという理由から、それに疑問をもつことは許されないとするとき、彼らが自分自身を無謬だと思っているわけではない、というのは不可解なことである。もしも許されるならばある命題の確実性を否定したいと思いながらも、許されないでいる人が他に存在しているのに、その命題を確実だと称することは、われわれ自身やわれわれと意見を同じくする者のみが確実性の判定者であり、しかも反対者のいい分を聞く必要のない判定者であるとすることである。
 「信仰を失い、しかも懐疑論を恐怖している」時代といわれてきた現代――人びとが自分たちの支持する意見を真実だと信じているというより、むしろそのような意見なしでは何をなすべきかがわからなくなると思っている時代――においては、ある意見を民衆の論難から保護せよという要求は、その意見の真実性を根拠とするよりは、むしろその意見の社会に対してもつ重要さを根拠としている。ある種の意見は、社会の安寧にとって不可欠とまではいえないにしても極めて有用であるので、これらの意見を支持することは、他の社会の利益の保護と同様、政府の義務の一つであるといわれる。このような必要のある場合、しかもそれが政府の直接的な義務である場合には、政府は人類の全般的な意見に裏打ちされた政府自身の意見に基づいて行動するが、その場合政府の行動を根拠づけ義務づけるのは無謬性ではないというのである。また、このような健全な意見を傷つけようとするのは無法者以外にはないとしばしば主張されるし、内心そう考えられている場合はさらに多い。そして無法者を抑え、このような無法者のみが実行しようとすることを禁止するのは、毫も間違ってはいないと考えられている。このような考え方は、論争を制限することの当否の問題を、教説が真実であるかどうかの問題ではなく、それが有用であるかどうかの問題にすりかえるものであり、この方法によって思想の無謬の審判者たらんとする場合の責任を免れうると自負しているのである。だが、このような方法で満足する人びとは、無謬性の仮定が一つの点から他の点に移されたにすぎない、ということに気づいていない。意見の有用性は、それ自体が意見の分れる問題であり、意見そのものと同じように論議の余地のあるもの、自由に論議すべきもの、論議を必要としているものである。非難されている意見に十分な弁護の機会が与えられないかぎり、その意見を有害と決定するためには、間違っていると決定する場合と同様、意見に関する無謬の審判者が必要である。異端者が自分の意見が真実であると主張することは禁じられているが、有用であるとか、害はないと主張することは差支えない、というような議論はとおらない。一つの意見が真実であるということは、その意見が有用であることの一つの要素である。ある一つの命題を信じることが望ましいかどうかを知ろうとすれば、その命題が真実であるかどうかを考慮せずにおくことができるだろうか?無法者の意見ではなく、もっともすぐれた人びとの意見では、真実に反する考えは真に有用ではありえない。このようなすぐれた人びとが、自分では間違っていると信じているが、はたからは有用であるといわれた教義を否定したというので咎められた場合、この人たちが右のような抗弁をするのを止めることができるだろうか?広く受け入れられている意見に与する人びとは、この抗弁を必ず最大限に利用する。彼らは、効用の問題を真実性の問題とまったく切り離して扱うことはしない。むしろ反対に、ある教説を知ったり信じたりすることが彼らにとって絶対必要だとされる一番の理由は、その教説が「真理」だということである。これほど重要な立論を一方の側だけが使用して、他の側は使用しない場合には、有用性の問題について公正な論議を行なうことはできない。実際は、法律や公衆の感情が、一つの意見の真実性について論議することを許さない場合には、その有用性も容赦なく否定されることになるのである。多少態度がやわらげられたとしても、その意見は絶対必要だとはいえないとか、それを拒否しても大して悪いことではないなどというのが、せいぜいのところなのである。
 ある意見が、自分たちの判断では非とされているからというので、その意見に対して発言の機会を拒否することは有害である。そのことをさらに十分に明らかにするためには、議論を具体例に即して見てみることが望ましいだろう。そこで私は私にとってもっとも不利な実例、すなわち意見の自由に対する反対論が、真実性の点から見ても有用性の点から見てももっとも強力と考えられる実例を選ぶことにする。そして、神と来世とに対する信仰、または何らかの一般に受けいれられている道徳律に対して異議が唱えられているのだとしよう。このような土俵で論議することは、私に対する不公正な反対論者に対して大きな利益を与える。彼らは必ず次のようにいうに違いないからである(公正を欠くことを望まない反対論者の多くは心の中で同じことをいうであろう)。君は、これらの教説は法律の保護のもとにおかれるべきものとは思っていないというのか?神に対する信仰は、君のいう、それを確信することは無謬性を仮定することになる意見の一つなのか?この問に対して私は次のようにいわなければならない。すなわち、私が無謬性の仮定というのは、ある教説(それがどのようなものであろうと)に対して確信を持つことではないと。私のいわゆる無謬性の仮定とは、反対者側の主張を他の人びとに聞かせることなしに、その人びとに代って問題を決定しようとすることである。そして、たとえその正しいことを私が確信している側でこのような態度がとられたとしても、私はやはりこれを弾劾し非難する。間違っているだけでなく有害な結果をもたらすという、ある意見についてのある人の判断――有害な結果をもたらすだけでなく、(私の強く非難する表現を用いるならば、)いかに不道徳で不敬であるかという判断――が、いかに説得的であり、その国や同時代人からいかに支持されていようとも、そのような判断を下すに当って、非難の対象である当の意見を弁護する言葉が聞かれない場合には、そこには判断を下した者の無謬性が仮定されているのである。問題の意見が不道徳または不敬虔とよばれるものだからといって、このような無謬性の仮定は許されるどころか、また危険ではないどころか、むしろ他のいかなる場合にも増してもっともゆゆしいものなのである。このような場合こそ、ある世代の人びとが後代の人びとの驚愕と恐怖をひき起す、恐るべき過失を犯すことになるのである。法の力が、もっともすぐれた人びとやもっとも高貴な教説を根絶やしにするために用いられた、歴史上忘れがたい数々の実例は、まさにこのような場合である。これらの実例においては、もっともすぐれた人びとの殲滅は痛ましくも完全に成功し、もっとも高貴な教説の若干は生き残ってきた。だが、その生き残った教説も(あたかも人を愚弄するかのように)、その教説や、その教説の広く受け入れられた解釈と意見を異にする人びとに対する同じような迫害を弁護するために使われたのである。
 人類は次のことを幾度想起しても、しすぎることはないだろう。すなわち、かつてソクラテスとよばれる人がいて、彼と当時の司法当局および世論とのあいだに重大な衝突が起った。偉大な個人の輩出した時代と国に生まれたソクラテスは、その時代その国におけるもっとも有徳な人であったと、彼とその時代をもっともよく知る人たちによっていい伝えられてきた。一方われわれには、彼は彼以後のすべての道徳の教師の先達および模範として知られており、またプラトンの高貴な霊感とアリストテレスの賢明な功利主義との共同の源泉として知られている。しかもこのプラトンとアリストテレスの二人は、「学者中の学者」であり、道徳哲学その他あらゆる哲学の源泉である。それ以後世に出てきたすべての卓越した思想家たちの師と認められているこの人――その名声は二千年以上の歳月を経てもなお高まりつつあり、その故郷である都市の名を輝かしている他の偉人たちの名を凌駕せんばかりのこの人――は、不敬と不道徳との故をもって同国人によって有罪と判決され、死刑に処せられたのである。国家の認めた神々を拒んだ故の不敬。実際、彼の告発者は、彼がいかなる神をも信じていないと主張した(『弁明』を見よ)。その学説と教育によって「青年を腐敗させた者」である故の不道徳。これらの告発について裁判所は誠実に裁判を行い(裁判所はあらゆる根拠から見て誠実であったことは疑いない)彼を有罪と認めた。そして、おそらくそのときまでに生れてきた人びとの中で人類からそのような扱いを絶対受けるはずのない人物を、犯罪者として死刑に処すべきであると宣告したのであった。
 ここで不当な裁判のもう一つの例に話を移すが、それは、ソクラテスの裁判の話のあとでも決してしりすぼみの感を抱かせるものではないだろう。それは千八百年以上も前にゴルゴダの丘で起った事件のことである。その生涯と談話に直接接した人びとの記憶に非常な道徳的偉大さを深く印象づけ、その後の十八世紀の間全能者の権化として崇められてきた人物が恥ずべき死に処せられたのである。それは何と?神者としてであった。人びとは彼らの恩人を単に誤解したというだけではなかった。実際の彼とは正反対なものと誤解し、最大の不敬漢として取扱った。だが現在では彼をこのように扱った人びと自身が最大の不敬漢と見なされている。現在では、人類がこれらの痛ましい仕打ち、ことに後者のキリストの場合を眺めるときに抱く感情のために、これらの不運な人物たちに対してそのような判断を下した当時の人びとは極端に不正なものとされている。だがこれらの人びとはどう見ても無法者ではなかった。普通の人びとよりも悪いどころか、むしろその逆であった。その時代と人びとの宗教的、道徳的、愛国的感情を十分に、あるいは十分以上に持っていた人びとであった。われわれ自身の時代を含め、あらゆる時代において、どこから見ても、なんら非難されることなく、尊敬されながら生涯を送ることのできる、正にそのような人びとであった。その国のどのような考え方からしても、もっとも非難される罪となるあのような言葉――神の子であることを自認する言葉――がキリストの口から出たとき、自分の衣を引き裂いた大祭司の嫌悪と怒りは、現在の人格高潔で敬虔な人びとの大多数が自分の宗教的道徳的意見を告白するときと同様、極めて誠実なものだったに違いない。今日その大祭司の行為を見て戦慄をおぼえる人びとの大多数は、もしも彼らが同じ時代に生き、また同じくユダヤ人として生れていたとすれば、正しく同じ行動をとったであろう。正統なキリスト教徒たちにすれば、最初の殉教者たちを石をもって打ち殺した人びとは、自分たちよりもよくない人間だったに違いないと考えがちだが、その人たちは、これらの迫害者の一人が聖パウロであったことを想起すべきである。
 さらにもう一つの実例をつけ加えることにしよう。誤謬におちいる人の知恵と徳がすぐれていればいるほど、その誤謬が他に与・ヲる印象はそれだけ強烈になるとすれば、この例こそもっとも印象の強いものである。いやしくも権力をもっている人のうち、自らを同時代人の中でもっとも善良な、またもっとも学識のあるものと考えることのできる人があったとすれば、皇帝マルクス・アウレリウスこそその人だろう。文明世界全体の専制君主でありながら、彼は生涯を通じて、非の打ちどころのない正義漢であったばかりでなく、彼の受けたストイックな養育からは想像もできないような非常に優しい心の持ち主であった。彼に帰せられる少数の弱点は、すべて寛大に走るという傾向のせいであった。また古代精神の最高の倫理的産物である彼の著作は、キリストのもっとも特徴的な教えとほとんど変らないものであった。彼以後世に君臨した正式なキリスト教徒であるどのような君主たちと比較してみても、言葉の教義的な意味を別とすれば、あらゆる意味においてよきキリスト教徒であったこの人、その彼がキリスト教を迫害したのである。それまでの人文学の学識の頂点に立ち、闊達で束縛されない知性を有し、またその道徳的著作のうちにおのずからキリスト教的理想を具現させたほどの性格をもちながら、その彼にしてなお、自らもっとも深い義務感をもって対したこの世界にとって、キリスト教はよいものであって決して害悪ではないことを看取することができなかったのである。現在の社会が嘆かわしい状態にあることを、彼は知っていた。だが、このような嘆かわしい状態にありながら、ともかくも社会の結合が維持され、現在以上に悪化することを免れているのは、彼によれば、公認の神々に対する信仰と崇敬があるからであった。彼は、人類の支配者として、社会の瓦解を防止することを自分の義務と考えた。だが、社会の現在の絆が取り除かれても、他のそれに代るものが生み出され、それが社会を再び結合してくれるであろうとは、考えなかった。新宗教は、現在の社会の絆の廃棄を、公然とその目的にしていた。したがって新宗教の採用が彼の義務でないとすれば、その抑圧こそ彼の義務であると思われた。さらにまたキリスト教の神学は、彼には、真理であるとは、神に起源をもつものであるとは考えられなかった。神が磔刑に処せられたというこの奇異な物語は、彼にとっては信じ難いものであったし、このようなまったく信じ難い根拠に全面的に依拠すると称する宗教が、革新の原動力となるとは、彼には予想もつかないことであった(だが、この宗教はどんなに割・しても、事実の上で革新の原動力であることを立証したのである)。そして、もっとも優しく気だてのよい哲学者であり統治者であったこの人物が厳粛な義務意識の下にキリスト教の迫害を正当と認めたのである。私の考えでは、これは歴史の全体を通じてもっとも悲劇的な事実の一つである。もしもキリスト教の信仰がコンスタンチヌスの庇護ではなく、マルクス・アウレリウスの庇護の下にローマ帝国の国教として採用されていたなら、世界のキリスト教はいかに異なったものになっていただろうかと思うと、心が痛む。だが、反キリスト教的教えを処罰するためにもち出される口実は、かつてマルクス・アウレリウスがキリスト教の宣伝を処罰するために用いた口実の中にすべて含まれている。この事を否定するのは、彼に対して公平を欠くと同時に、真実に反することになるだろう。キリスト教徒が、無神論は誤謬であると同時に社会の解体を促す傾向があると確信しているように、マルクス・アウレリウスもキリスト教について同じことを信じていた。当時生存していた人びとの中でキリスト教をもっともよく評価することができると考えられてもよかった彼にしてそうなのである。意見の宣伝を処罰することを認める人は、自分がマルクス・アウレリウスよりもいっそう賢明でりっぱな人間である――自分の時代の知識にいっそう深く精通し、その知性は時代の水準をはるかに越え、真理の探究においていっそう熱心であり、ひとたび真理が発見された場合には、その真理のためにいっそう誠実に献身する――と自惚れないかぎりは、誰でも偉大なマルクス・アウレリウスさえそのために不幸な結果を招いたあの無謬性の仮定――自分自身と一般民衆の無謬性の仮定――を断つべきであろう。
 マルクス・アウレリウスの所行を正当化できないような議論をもち出して、不敬な意見を抑制するために刑罰を使用することを弁護しようとしても、それが不可能であることを知ると、せっぱつまった宗教的自由の敵は、時にはこの結果を受け入れる一方、ジョンソン博士とともに次のように弁解することがある。すなわち、キリスト教の迫害者たちは正当であった、迫害は、真理が通過しなくてはならない、また真理がつねにその通過に成功する一つの試練に他ならない、法律による刑罰は時として有害な誤謬に対しては有益な効果をもたらすが、真理に対しては結局は無力なものである、と。これは宗教的不寛容に対する注目すべき賛成論の一つであって・A黙過することのできないものである。
 迫害はおそらく真理を傷つけることはできないから、真理を迫害しても差し支えないというこの理論は、新たな真理を受け入れることに対して故意に敵対するものと非難することはできない。だが、この理論は、人類に新たな真理を与えた功績のある人びとを遇するに寛大であると称賛するわけにはいかない。世間と深い関係があるにもかかわらず、これまで世間に知られていなかったことを世間に知らせること、またある世俗的または霊的な重要事についてこれまで世間が誤解していたことを世間に対して明らかにすることは、一人の人間がその同胞に対してなすことのできる最大の貢献であり、初期のキリスト教徒や宗教改革者のような場合は、それはジョンソン博士と同じ考え方をする人びとによれば、人類に贈られるもっとも貴重な贈物であった。このような輝やかしい恩恵をもたらした人物が殉難をもって報いられ、彼らに対する報償がもっとも罪深い犯罪者として取り扱われることであるというのは、この理論によれば、人類が麻布をまとい灰をかぶって哀悼の意を表すべき誤謬と不幸ではなくて、正常で正当な事態なのである。この理論によれば、新たな真理の提唱者は、ロクリス人が法律を制定する際の新たな法律の提案者と同じ立場に立たなければならないのである。すなわち新たな法律の提案者は首に絞索を巻きつけられ、公衆の集会が提案者の説明理由を聞いてすぐにその提案を採用しない場合は、直ちに絞め殺されなければならなかった。恩人に対するこのような扱い方を弁護する人びとは、その恩恵に多くの価値を認めているとは思われない。私にいわせれば、この問題に関するこのような見解は、新しい真理はかつては望ましいものであったかもしれないが、今やわれわれは十分それを持っていると考えている人びとのあいだで主として行われている見解である。
 だが、真理はつねに迫害に打ち勝つという格言は、実は多くの人びとが次ぎ次ぎに繰りかえしてきた結果きまり文句になっている虚言、しかもすべての経験によって反駁されている耳ざわりのよい虚言の一つに他ならない。歴史は迫害によって沈黙させられた真理の実例に満ちている。たとえ永久に圧殺されなくても、数世紀にわたって阻止されることがある。宗教的な意見のみに限っても、宗教改革はルター以前に少くとも二十回は起ったが、ことごとく鎮圧された。ブレシアのアーノルドが沈黙させられ、フラ・ドルチ・mが沈黙させられ、サヴォナローラが沈黙させられ、さらにアルビ教徒も、ワルド教徒も、ロラド教徒も、フス教徒もことごとく沈黙させられた。ルターの時代以後においても迫害が執拗に行われたところでは、それはつねに成功した。スペイン、イタリア、フランドルおよびオーストリア帝国においては、新教は根絶された。メアリ女王が生きているか、またはエリザベス女王が死んでいたならば、イギリスにおいてもおそらく同様のことが起っていただろう。異教徒が強力な党派を形成していたために迫害の効果を十分にあげえなかったところを除けば、迫害はつねに成功した。事理を解する人であれば、キリスト教はローマ帝国において根絶されていたかもしれないと思わない人はいないだろう。キリスト教が広く伝播し、優勢となったのは、迫害は時おり行われたにすぎず、それも短期間つづいただけで、その間の長い中間期間は伝道がほとんど妨げられなかったためである。単なる真理としての真理が、牢獄と火刑に打ち勝つことのできる――誤謬のもちえない――力を本来もっているなどというのは、根拠のない一片の感傷主義に他ならない。人間が真理に対して抱く熱意は、彼らが誤謬に対してしばしば抱く熱意以上に出るものではない。したがって法律上の刑罰、もしくは社会的な罰ですら、これを十分に活用すれば、真理の伝播も誤謬の伝播も大体同じように阻止することができるだろう。真理の有する真の強味は次の点にある。すなわちある意見が真実である場合には、それは一、二度ならず幾度となく沈黙させられるかもしれないが、幾時代か経過するうちには、たいていその真理を再発見する人びとが現われ、ついには、それら真理の再発見のどれか一つがちょうどよい時期に出会い、好都合な事情によって迫害を免れ、それを抹殺しようとする爾後の一切の試みに抵抗するだけの力を得るようになる、という点である。
 今は、われわれは新たな意見の提唱者を死刑に処することはない、われわれはわれわれの祖先のように予言者を殺すようなことはしないし、予言者のために墓石を建てさえする、とひとはいうかもしれない。いかにもわれわれは、もはや異教徒を死刑に処することはない。もっとも嫌悪すべき意見を罰するときでも、近代人の感情の許容する刑罰の重さは、このような意見を絶滅させてしまうほどではない。だが、われわれは、法律的迫害という汚点すら、免れえたとは自負しない方がよいだろう。意見に対する罰、少・ュとも意見の発表に対する罰は、依然法律上存在している。このような刑罰を課すことは現代でも例のないことではなく、このような刑罰がいつかは完全な威力をもって復活するということも全然信じられないことではない。一八五七年にコーンウォール州の夏季巡回裁判で、日常生活のあらゆる面においてその行状が常人と異ならないといわれていたある不運な人物がキリスト教に関して若干の無礼な言葉を口にし、またこれを門扉の上に書いたという理由によって二十一ヵ月の拘禁の判決を受けた。そのときから一ヵ月たらずのうちに、オールド・ベイリー刑事裁判所において二人の人物がそれぞれ別の事件で、彼らが何らの神学的信仰をもたないことを正直に言明したという理由で陪審員となることを拒否され、うち一人は判事と弁護士の一人から重大な侮辱を加えられた。さらに別の例では、ある外国人は同じ理由から盗難事件についての法的手続を拒否された。この救済手続の拒否は、神(いかなる神でもよい)と来世に対する信仰を告白しない者は法廷で証言を行うことを許されないという法律論に基づくものであった。これは、このような人びとは、裁判による保護から除外された法的保護を受けえない者であると宣言するに等しい。すなわち、この人たちの場合は、彼ら自身または彼らと同意見の人びとの外には誰も現場に居合わせていなければ、たとえ強奪されたり、襲撃されたりしても、犯人が処罰されることはない。そればかりか、事実の証明がもっぱら本人の提出する証拠のみによる場合も同様である。このような法律論が基づいている前提は、来世を信じない者の宣誓は無価値であるということである。このような主張は、それに同意する人びとの歴史に対するはなはだしい無知を示すものである(あらゆる時代の不信仰者のうちの多くの人たちが極めて誠実で極めて高潔な人びとであったことは歴史の証明するところである)。およそ徳と学識において世に令名の高い人びとの多くが――少くとも彼らの親友たちのあいだでは――不信仰者として知られていることを少しでも承知している人であれば、このような主張は支持しないであろう。その上、このような規定は自殺的であり、おのれ自らの根拠を破壊するものである。すなわち、無神論者は虚言者であるといいながら、進んで虚言しようとするすべての無神論者の証言は受け入れる一方、悪評をものともせず、虚偽を肯定するよりも忌み嫌われている信条を公然と告白する無神論者の証・セだけは、これを拒否するのである。このようにして、その公言している目的に関する限り不合理なことを自ら立証している規定が有効なのは、ただ、それが憎悪の標章や迫害のなごりである場合だけである。しかもその迫害たるや、その迫害を受けるにはあたらないことを明白に証明することによって、かえってその迫害を受けるものに該当することになるという奇妙な特色をもつものなのである。このような規定と、その中に含まれている論理は、不信仰者を侮辱すると同時に、信仰をもつ者をも侮辱するものである。来世を信じない者は必ず嘘をつく、来世を信じない者は地獄を恐れていないから嘘をつく、というのなら、来世を信じる者がかりに嘘をつかないとしても、それは単に地獄を恐れているからにすぎない、ということになるからである。もちろんわれわれとしては、このような規定を定めた人びとや、これを支持する人びとによって作られてきたキリスト教徒の徳についての概念は、彼ら自身の心象に根ざすものであるなどと想像するような失礼なことをするつもりはない。
 これらの実例は、実際は迫害の断片や残滓にすぎないのであって、迫害しようという意思の現われというよりは、むしろイギリス人に極めて頻繁に見出される欠点の一つ、すなわち、もはや悪しき原理を実行に移そうとするほど悪くはないのに、その悪しき原理を主張することに不自然な楽しみを覚えるという欠点なのである。だが、より悪い形の法律的迫害は、この約一世代のあいだはずっと行われてこなかった。しかし、不幸にして今の公衆の心の状態では、このような事態が今後もそのままつづいていくという保障はまったくない。現代においては、日常生活の静かな表面は、新たな利益を導入しようとする試みだけでなく、過去の害悪を復活させようとする試みによってもしばしば攪乱される。現在宗教の復活といわれているものは、偏狭で教養のない人びとにおいては、つねに少なくともそれに相応する頑迷固陋の復活に等しい。人びとの感情の中に耐性の強い不寛容の酵素が存在している場合には――このような酵素は、わが国の中流階級の中にいつも存在している――、ちょっとした感情の動きで、彼らはつねに迫害の適当な対象と考えていた人びとを積極的に迫害するようになるのである。わが国が精神的自由の国になるのを妨げているのは、自分が重要視している考えを否認する者に対して、人びとが抱くこの不寛容の意見や感情である。わが国ではこ・黷ワでの長い間、法律上の刑罰が当人に与える第一の損害は、社会的汚名がそのために強化されるということであった。真に効果的なのはこの社会的汚名である。それは非常に効果的なので、他の多くの国で司法上の刑罰を受けるおそれのある意見が告白される場合よりも、イギリスでは社会が禁止している意見が告白される場合の方がずっと少ない。他人の好意に頼る必要のない経済状態の人びとを別にすれば、他のすべての人びとにとっては、世論は、この問題に関しては法律と同様の効力をもっている。社会的汚名を着せられ、パンを得る途を拒まれるぐらいなら、獄に投ぜられる方がましなのである。パンがすでに確保されていて、権力者や諸団体や公衆から何の支援も求める必要のない人びとは、どんな意見を述べようと、悪感情をもたれ、悪評を下されること以外は、何も恐れるものはない。また、この程度のことに耐えるためには、とくに英雄的な性格を必要とするわけでもない。このような人びとには、同情をよせる必要はない。だが、われわれは、今日自分と意見を異にする人びとに対して、かつてのように多くの損害を与えることはないとしても、彼らに対するわれわれの扱い方如何によっては、われわれ自身が昔と同様の損害を受けることになるかもしれないのである。ソクラテスは死刑に処せられたが、彼の哲学は太陽のように天空に昇り、理知の天空全体を照した。キリスト教徒たちはライオンに投げ与えられたが、キリスト教会は成長して、堂々と枝葉をひろげた大樹となり、活力の衰えた古い草木を凌駕し、その樹陰にそれらの草木は息をひそめたのである。われわれイギリス人の単に社会的な不寛容は、何びとも殺しはしないし、どんな意見も根絶さすことはないが、人びとにその意見を偽装させたり、意見を広めようとする積極的な努力を控えさせたりする。われわれの場合には、異端的な意見が十年ごとに、あるいは一世代ごとに、目に見えて勢力を増大したり、喪失したりすることはない。それらの意見は一度も遠く広く燃え上ることはなく、それを生み出した思索的研究的な人びとの狭い交友範囲の中にくすぶりつづけただけで、真実の光明にせよ、偽瞞的な光明にせよ、それで人類の一般的問題を照らし出すようなことは決してなかった。このようにして一部の人びとにとっては極めて満足すべき状態が維持されることになった。このような状態の下では、誰かを科料に処したり投獄したりするというような不愉快な処置がとら・黷驍アとはなく、世に行われているすべての意見は表面上そのまま維持される一方、堕落した思想にとりつかれた反対者たちの理性の活動もまったく禁止されるということはないからである。思想界に平和を保ち、思想界の一切の物事をほとんど現状のままに継続させるためには、これはまったく都合のよい方法である。だが、この種の知的平和のために支払われる代償は、人間精神の道徳的勇気のすべてを犠牲にすることである。もっとも活動的探求的な知性を備えた人びとの大部分が、自分自身の確信する一般的原理と根拠とを胸裡に秘めておくことを得策と考え、また公衆に向かって発表する意見では、心中ひそかに否認している前提に自分の結論をできるだけ順応させようとする。このような状態の下では、かつての思想界を飾っていた、あの率直で大胆な性格の人びとや、論理的で首尾一貫した知性を備えた人びとの出現は不可能である。このような情勢の下で見られるのは、ただ単に平俗な考えに迎合する者か、さもなければ世論に迎合して真理を説こうとする者である。あらゆる重要問題に関する彼らの議論は大向う受けをねらったもので、自分自身で確信している議論ではない。このような事態を望まない人びとは、自分の思考と関心を、原理の領域に立ち入ることなしに論じることのできる些末な実際問題――人類の精神さえ強化され拡大されれば、おのずと正しく解決されるはずであり、そうなるまでは有効な解決は見られない問題――に限定する。だが、それでは、人びとの精神を強化し拡大させるもの、すなわち最高の問題についての自由にして大胆な思索は捨てて顧みられなくなる。
 異端者のこのような沈黙は何の害にもならないと思う人びとは、まず第一に、この沈黙の結果として異端的意見に関する公平で徹底的な議論がまったく行われなくなるということを考えるべきである。また、異端的意見のうちこのような論議に耐ええないようなものでさえ、伝播は阻止されるとしても消失することはない、ということを考えるべきである。正統的な結論に帰着しないような一切の探求を禁止することによってもっとも堕落させられるのは、異端者の精神ではない。最大の被害を被るのは異端者ではない人びとであり、異端におち入ることを恐れるあまり、その人びとの精神の発達はすべて束縛を受け、理性の活動が脅やかされるのである。有望な知性に臆病な性格を併せもっている人びと、不敬または不道徳と見なされるかもしれない結・_に到達することを恐れ、大胆かつ積極的に自分独自で徹底して考え抜こうとはしない人びと、このような人びとが多数存在することによって、世界がいかに多くの損害を受けるかは、はかり知れないものがある。このような人びとの中に、われわれは時として、鋭い良心と、敏感で洗練された悟性の持ち主を見出すことがある。そういう人は、沈黙させることのできない知性をなんとかごまかすことに一生を費し、良心と理性の命ずるところを正統説と折り合わせようとしてあるだけの工夫をこらす。だが、彼はおそらく最後までそれには成功しないだろう。どのような結論が導き出されようとも、あくまでも自分の知性にしたがっていくことこそ、思想家としての第一の義務であることを認めない者は、とうてい偉大な思想家たりえない。相応の研究と準備とをもって自分自身でものを考える人物は、たとえ誤謬におち入ろうと、その誤謬は、わざわざ自分で考えることをしなくともよいから正しい意見を抱いているにすぎない人びとの意見よりも、真理に対してより多く貢献する。思考の自由は、単に偉大な思想家を作りあげるためだけに必要なのではない。それよりも、普通の人間をできる限り精神の高みに到達させるために不可欠なのである。精神的隷従の一般的雰囲気の中でも、偉大な思想家は生まれてきたし、将来もまた生まれてくるかもしれない。だが、このような雰囲気の中では、活発な知力を有する国民はかつて一度も生れたことはなかったし、将来においても生れてくることはないだろう。一時的にこのような性格に近づいた国民があったとすれば、それは異端的な考え方を恐れる傾向が一時中断したためであった。原理は論ずべからざるものであるという暗黙のしきたりのあるところ、人類の関心を占めるに足る最大の諸問題についての論議はすでに終ったと考えられているところでは、歴史上のある時期を極めて注目すべきものとしたあの国民全体にわたっての高い精神的活動力は見られない。熱情を燃やすに足る大きな重要問題に関して論争が回避された時代には、国民の精神が根底からかき立てられたことはなかったし、もっとも平凡な知力の持ち主までも、思想する者の威厳を持つものにまで高めるあの推進力も存在しなかった。宗教改革の直後の時代のヨーロッパの状態が、このような推進力が存在した時期の一つの例である。もう一つの例としては、ヨーロッパ大陸の比較的教養の高い階級のみに限られたものではあったが、十八世紀・續シの思想的運動がある。また、いっそう短期間のものではあるが、ゲーテおよびフィヒテの時代におけるドイツの知的高揚があった。これら各時代は、それぞれが発展させた意見のあいだには大きな違いがあったが、そのいずれにおいても権力の羈絆が打ち破られたという点では共通していた。三者のいずれにおいても古い精神的専制は投げ捨てられ、しかも新しい精神的専制はまだ生れていなかった。これら三つの時代に存在した推進力こそ、ヨーロッパを今日のヨーロッパにしたのである。それ以来、人間精神にしろ、諸々の制度にしろ、今日までに実現された進歩の一つ一つは、いずれもはっきりとこれら三つの時代のどれか一つにその起源を求めることができよう。だが、しばらく前からこれら三つの時代の推進力のすべてが、ほとんど消耗され尽くしたような観がある。したがって、われわれが再びわれわれの精神的自由を強く主張するまでは、いかなる新たな出発も期待することはできないだろう。
 われわれはここで議論の第二の部分に進むことにしよう。すなわち一般に認容されている意見のうちには誤っているものがあるかもしれないという仮定を捨てて、それらが真実であると仮定する、そして人びとがそれらの意見を自由にかつ公然と論究することなく、真理として受け入れている場合、その受け入れ方が妥当かどうか検討することにしよう。強固な意見をもっている人物が、自分の意見があるいは誤っているかもしれないということをいかに認めたがらなかったとしても、次のことを考えれば、当然心を動かされるはずである。すなわち、その意見がいかに真実であろうと、それが十分に、何度も何度も、そして大胆に論議されなければ、それは生きている真理としてではなく、死せる独断として受け入れられているにすぎない、ということである。
 ある種の人びと(幸にしてかつてほど多くはないが)は、自分が真実だと信じているものに対して一も二もなく同意する人があれば、たとえその人がその意見の根拠について何の知識もなく、その意見に対する極めて皮相な反対論に対しても筋道だった弁明をなしえないとしても、それで十分だと考えている。このような人びとは、彼らの信条とすべきものをひとたび権威者から教えてもらうことができれば、自然と、それに疑いをさしはさむことは、害こそあれ、何の益もないと考えるのである。このような人びとの影響力が強いところでは、公認の意見に対して、理をわけた、・v慮のいきとどいた反対論を展開することはほとんど不可能である。だが、強引に、やみくもに反対することはできないことではない。議論を完全に排除することはほとんど不可能であり、しかも一旦論争になると、確信に基づかない考えは、ちょっとでも論拠のありそうな議論の前には容易に屈伏してしまうからである。だが、このようなことも行われない場合――真理である意見は人の心の中に存在しているが、それはただ一つの偏見として、すなわち議論と無関係な、議論をよせつけない一つの信念として存在している場合――、そのような真理のあり方は、理性的存在が真理を保持する仕方ではない。これでは真理を知ることにはならない。このような仕方で保持された真理は、むしろ逆にある真理を説く言葉に偶然付着していた一つの迷信にすぎなくなってくる。
 人類の知性と判断力の啓発が必要だとすれば――少くとも新教徒はこのことを否定しないだろう――、これらの能力の訓練にもっとも適した問題は、誰にとっても、その人にとって非常に関心の深い問題、したがってそれについて意見をもつことがどうしても必要と思われる問題をおいてはない。悟性の鍛錬が何よりもこの一事に負っているというものがあるとすれば、それは自分自身の意見の根拠を学び知ることにあるだろう。正しい理解をもつことが何よりも重要とされる問題に関し、どのような意見をもつにせよ、それが正しいとされるためには、少くともよくある反対論に対して、その意見を弁護することができなくてはならない。だが、ある人は次のようにいうかもしれない。「意見の根拠を彼らに教えこめばよい。ある意見がかつて論駁されたことがないからといって、それは単におうむ返しに繰り返されているだけだとはいえない。幾何学を学ぶ人びとは、単に定理を暗記するだけではなく、同時にその証明をも理解し習得するのである。したがって、彼らが、幾何学的真理が否定されたり、論駁されたりするのを今まで耳にしたことがないからといって、その人たちが幾何学的真理の根拠について依然として無知なままだというのは不合理だろう」と。疑いもなくそのとおりである。数学のように、誤った論者の側には何も述べようがない問題については、そのような教え方で十分である。数学的真理の証拠の特徴は、一切の論証が一方の側にあることである。いかなる反対論も存在の余地はなく、したがって反対論に対する答弁もありえない。だが、意見の相違を生じうる・謔、なあらゆる問題においては、真理は、相矛盾する二組の理由を比較検討することによって定まるのである。自然哲学においてさえ、同一の事実についてつねに別の説明が可能なのである。太陽中心説に対しては地球中心説があり、酸素説に対しては燃素説がある。それで、一方の説がなぜ真実でありえないかが、明らかにされなくてはならない。そのことが明らかにされない限り、またそのことがいかにして明らかにされるのかを理解しない限り、自分の意見の根拠は理解されたことにはならない。だが、論争の主題が非常に複雑な場合、すなわち、道徳、宗教、政治、社会関係、人生問題の場合は、一方の意見を可とする議論の四分の三は、反対意見の側の有利な面には目をつぶっている。ただ一人を除けば、古代最大の雄弁家だったキケロは、記録の伝えるところによれば、つねに自分自身の主張を研究するときと少くとも同じほどの熱心さをもって反対者の主張を研究した。キケロが法廷弁論に勝つ手段として実行したことは、真実に到達しようとして何らかの主題を研究しているすべての人びとが、見習わなければならないことである。その問題に関して自分の主張を知るだけの人は、その問題に関してほとんど何も知っていないのである。彼の論拠は正しくて、これまで何びともそれを論駁することができなかったかもしれない。だが、彼が、同様に反対者の側の理由を論駁することができなければ、また、反対者の側の理由の何たるかさえも知らなければ、彼はどちらの意見をも選択する根拠をもたない。その際、彼のとるべき合理的な立場は、判断を保留することであろう。彼がそれに満足できない場合は、権力者のいうところに従うか、それとも世間の大多数の人びとのように、自分がもっとも好ましく思う意見を採用するしかない。反対者の主張を、自分の教師たちの説明を通して反対者の議論に対する教師たちの駁論とともに聞くというだけでは十分ではない。それは反対者の主張を公正に扱う途ではないし、また反対者の主張を自分の精神にじかに触れさせることにもならない。それらの主張を実際に信じ、それらの主張を真剣に弁護し、それらの主張のために全力を尽くす当の人びとの口から、直接にその主張を聞くことができなければならない。それらの主張を、もっともそれらしい、もっとも説得的な形で知らなければならない。彼は、当の問題に関する正しい見解が直面し対処しなければならない難問の力のすべてを、直接身をもって感・カとらなければならない。さもなければ、その難問に立ち向かい、それを退けることのできる真理の部分を、実際に身につけることはとうていできないだろう。教育ある人とよばれている人びとの一〇〇人中九十九人までが、このような状態にある。自分の意見を滔々と述べる人びとでさえ同様である。彼らの結論は真実であるかもしれないが、もしかすると誤謬であるかもしれないのである。彼らは、自分と考えを異にする人びとの心的立場に自分が立った場合、どのようなことを主張しなければならないか、ということを考えてみたことは一度もない。したがって、彼らは、自分が主張している教説を、言葉の真の意味においては知っていない。その他たとえば、一見矛盾しているように見える二つの事実が実は互に調和しているのはなぜかとか、一見有力に見える二つの論拠のうち、とくに一方を選択しなくてはならないのはなぜかなどについて、彼らはそれをきちんと理由づけて説明することができない。当の問題についての真理のうち、議論を方向づけたり、問題に通暁している人の判断を決定づけたりするような部分に関しては、彼らは何も知らない。このような部分は、双方の側に対して平等公平に注意を払い、双方の理由をはっきりと見定めようと努力してきた人びと以外には、何びともこれを知ることはできない。このような習練は、道徳的人間的諸問題の真の理解にとっては必須のものであるから、真実が問われている重要な問題について反対者が存在しない場合は、そのような反対者を想像し、そしてその反対者に、もっとも老練な悪魔の代表者が考えつくことができるような強力な論証を提供してやることが絶対必要なのである。
 右のような考察の説得力を殺ぐため、自由な論議を否定する人びとは、おそらく次のようにいうだろう。すなわち一般の人びとは、自分たちの意見に対して哲学者や神学者たちからいい出されるすべての反対論や賛成論を知ったり理解したりする必要はない、普通の人びとは怜悧な反対者の虚偽や誤謬のすべてを暴露できなくともさし支えない、と。また、それらの反対説に応酬できる者がつねに存在していて、教育のない人びとを誤らせるおそれのある説には、ことごとく論駁を加えることができれば、それで十分である、単純な人びとは、教えこまれた真理の明瞭な根拠について説明が得られれば、それ以外のことは権威者に信頼して任せるだろうし、また提起される一切の難問を解決できるような知識も・ヒ能も自分にはないことがわかっているので、難問はすべてとくにその仕事のために訓練された人びとによって答えられると確信しているだろう、と。
 真理の理解については、それを信じることができる程度に理解しておれば、それで十分だと思っている人びとが、以上のような見解をいかに弁護しようとも、自由な論議を擁護する主張は断じて弱められはしない。右の説でさえ、人間はすべての反対論に対して満足すべき答弁がなされたという合理的な確信をもたねばならない、ということを認めているからである。それに、反対者の方から答えてもらいたいといい出されなければ、どうして反対論に対して答弁することができようか?その答弁が不十分であることを示す機会が反対者の方になければ、その答弁が十分であることが、どうしてわかるのか?しかも、一般民衆はその必要はなくとも、少くともそれらの難問を解くべき哲学者や神学者が知っていなければならないのは、もっとも面倒なかたちでのそれら難問なのである。それは、それらの難問が自由に述べられ、それらが、それらにとってもっとも有利な状態におかれない限り、達成されることはできない。カトリック教会には、この厄介な問題を処理するための独自の方法がある。すなわち、その教義に対する確信があってはじめて、その教義を受け入れることを許される人びとと、いわれるままにその教義を受け入れなければならない人びととを、画然と区別しているのである。もちろん何を受け入れるかについては、両者ともいかなる選択も許されない。だが、少なくとも十分に信頼されうるような聖職者は、反対者たちの主張に答弁できるために、それらの反対論を知ることを許されるし、またそれを推賞もされ、したがって異端の書物を読むことも許される。だが、一般信徒は、特別の許可を受けない限りは、これらの書物を読むことはできないし、しかもこの許可は容易には受けることができない。この宗規は、反対者の主張を知ることが教師にとって有益なことを認めてはいるが、それと矛盾することなく、残りの一般世人に対しては、いろいろ手段を講じて反対者の主張を知らせないようにしている。このようにして選ばれた者に対しては、一般大衆よりも、いっそう多くの精神的自由とはいえないまでも、少くともいっそう多くの精神的教養が得られるようにしている。この工夫によってカトリック教会は、その目的を果たすために必要な知的優越を得ることに成功している。自・Rのない教養は、闊達で寛容な精神を生み出すことはないとしても、ある主義のための怜悧な訴訟弁護士を作り出すことはできるからである。だが、新教を奉じている諸国では、この方策は拒否されている。新教徒は、少くとも理論上は、宗教選択の責任は各人自らが負わなければならないものであって教師に転嫁することはできない、という見解をとっているからである。その上、世界の現状においては、教育ある人びとによって読まれる書物を教育のない人びとの目から遠ざけておくことは実際上不可能である。それに、人びとの教師たる者としては、知るべきことはすべて知っていなければならないとすれば、あらゆる事柄が自由に何の拘束もなしに書かれ、かつ出版されなくてはならないのである。
 だが、一般に認容された意見が真実である場合に、自由な論議が行われないことから起こる弊害が、単にそれらの意見の根拠について人びとを知らないままにしておくだけであれば、それは、知的害悪であるとしても道徳的害悪ではなく、性格に及ぼす影響という点に関しては、それら意見の価値は何ら変るところはない、と思われるかもしれない。だが実際は、論争が行われない場合には、意見の根拠が見落とされるだけでなく、意見そのものの意味がしばしば見落とされる。意見を伝えるための言葉がまったく思想を表さなくなるか、あるいは、最初その言葉が伝えようとしていた思想の断片を表すだけのものになってしまう。鮮明な概念や生き生きした信仰は失われて、機械的に暗記された少数の文句が残るにすぎなくなる。あるいは、意味の一部がかろうじて記憶されるとしても、単にその外殻や外皮が記憶されるにとどまり、純美な精髄は忘却されてしまう。このような事実で占められている人類の歴史の重要な一章は、いかに熱心に研究され、反省が加えられても、それで十分ということはない。
 以上のようなことは、ほとんどすべての倫理的な教えや宗教的信条の経験の中に例証されている。それらの教説や信条はすべて、その創始者や創始者の直接の弟子たちにとっては、意味と活力に満ちたものであった。それらの教説や信条を他の信条よりも優勢にしようとする努力がつづけられている間は、その意味は少しもその力を減じることなく感じとられていたし、おそらくはさらにいっそう深く自覚されるようになった。そしてついにそれは普及して一般的な意見となるか、あるいはその発展が停止する。それはすでに獲得した地盤を・ロ持するだけで、それ以上には広がらなくなる。このような結果が明らかになってきたとき、その問題に関する論争は活気を失い、次第に消滅していく。そしてその教説は、たとえ一般に認容された意見として認められなくても、少くとも一般に認容された意見の一分派または一部門としての地位を占めるようになる。それらの教説を奉じている人びとは、大体は、それを受けついだのであって、選びとったのではない。この種の教説のある一つから他の一つへの転向は――今やそれは例外的な事実であるが――それを奉じる人びとの思想にとってはあまり重要な問題ではない。最初のころのように世間に対して自説を防衛し、あるいは世間を自説に改宗させようと、たえず気をくばっているようなことはなく、ただ黙従の状態におち入り、自分の信条に対する反対論に対しても、よくよくのことがない限りは、耳を傾けようとはしない。また自分の信条に対する擁護論をかざして反対論者(そのような論者が存在するとして)を悩まそうともしない。この種の教説の活力の衰退は、通常このときをもって始まると考えられる。あらゆる信条の教師たちが嘆いているのを、われわれはしばしば耳にするが、彼ら教師たちが嘆いているのは、信奉者たちが名目上承認している真理について、その生き生きした理解を信奉者たちの心中にもたらし、心魂に浸透させ、真に行為を支配する力にしようとすることが、いかに困難であるか、ということである。信条の存続をかけての戦いが行われている間は、このような困難について嘆かれることはない。このような時期には、あまり頑強でない戦士たちでさえ、自分たちが何のために戦っているのか、また自分の信条と他の教説との間にどのような違いがあるのかを、知っているし、感じてもいる。そして、いかなる信条にせよ、その存続がかかっているこのような時期には、次のような人びとが少なからず見出される。すなわち、信条の根本原理に対するいろいろな考え方を理解し、その原理の含む重要な意味のすべてを考量し、信条に対する確信が信条の完全に浸透した精神の中に生み出す、性格に対する豊かな影響をも経験してきた人びとである。だが、信条が一つの世襲的なものになり、能動的に受けとられるのではなく、受動的に受け入れられるようになったときには――その信条を信じることから生れてくる諸問題に対して、もはや最初のころのように、精神的活力が用いられなくなってきたときには――、信じるとい・、ことを止めて、式文のみを記憶しようとする傾向、あるいは信条に対してただ無感動無神経に賛同する傾向がますます進行する。そうなると、信条を意識的に理解したり、自分の体験によって吟味したりする必要がなくなり、いわれるままにそれを受け入れるような状態となり、ついには信条は、人間の内的生活とはまったく関係のないものとなってしまう。そして、現代の世界においては、次のような例がひんぱんに見受けられるようになり、それが大多数を占めるほどになる。すなわち、信条はいわば精神の外側にとどまり、精神をおおい、硬化させて、われわれの天性の高貴な部分に対する他の一切の影響を拒もうとする。信条の力は、清新活発な他の確信の侵入を防ぐために発揮されるだけで、信条自身は知力のためにも心情のためにも役に立つことは何も行わず、ただ知力や心情を空虚にしておくために、見張っているだけである。
 本来は人の心に非常に深い印象を与えるはずの教説が、想像力や感情や悟性に生き生きと実感されることなく、いかに死せる信仰として心中にとどまっているかは、キリスト教信者の大多数がキリスト教の教説を信奉している態度にそれが表われている。ここでキリスト教というのは、すべての教派と宗派によってキリスト教と考えられているもの、すなわち、新約聖書の中に含まれている箴言と教訓とを意味している。これらのものは、キリスト教徒たることを明言しているすべての人びとによって神聖なものと考えられ、律法として受け入れられている。だが、これらの律法に照らして自分自身の行動を律したり、吟味したりしているキリスト教徒は、千人中に一人もいないといってもおそらく過言ではないだろう。キリスト教徒がその行動の規準としているのは、彼の国民、階級、または彼の属する宗教団体の習慣である。彼にはこのようにして、一方では、自分を律すべき規則として、絶対不可謬の智者から与えられたと信じられている一群の倫理的箴言があり、他方では一群の日常的な分別と慣例がある。後者は、右の箴言のうちのあるものとはある程度まで一致しているが、あるものとは必ずしも一致せず、またあるものとは正反対であり、概してキリスト教の信条と俗世的生活の利害や誘因との妥協の産物である。彼が恭々しく敬意を捧げるのは、これらの規準のうちの前者に対してであるが、事実上の忠誠を捧げるのは後者である。すべてのキリスト教徒の信じているところによれば、貧しき者、卑しき・メ、世に虐げられている者は幸である。また、富める者が天国に入るのは、ラクダが針の目を通るよりも困難である。キリスト教徒は、自らも裁かれないようにするため、人を裁いてはならない。決して誓ってはならない。自分自身を愛する如くにその隣人を愛さなければならない。人が彼らの外套を奪うなら、自分の上着をも与えなければならない。決して明日のことを思い煩うてはならない。もしも完全になろうと思えば、もっているすべてのものを売って、これを貧しい人びとに与えなければならない。われわれはこれらの箴言を信じていると、キリスト教徒がいうとき、彼らは決して不真面目なわけではない。彼らは実際にそれを信じているのであり、それも世間の人びとが、讃美の声はいつも耳にするが、論議されるのは聞いたことがないものを、そのまま信じているのと同じように、信じているのである。だが、行為を律する生きた信条という意味においては、これらの教義のうち彼らが信じているのは、世間で普通に人びとがそれに従って行動しているもの以上に出るものではない。完全な形におけるこれらの教義が役に立つのは、反対者を攻撃するときである。また、どんな行為にしろ、賞讃に値すると自分で思う行為を自ら行う場合は、その理由としてこれらの教義をもち出すべきである(それが可能な場合は)と考えられている。だが、これらの箴言は、彼らが自分で実行しようなどとは思ってもいない、非常に多くの行為を要求しているのだということを、彼らに思い出させる人間がいたとすれば、その人は他人より優っているふりをする極めて不人気な人物の一人に数えられるのが関の山であろう。これらの教説は、普通の信者に対しては何の支配力ももたない。すなわち彼らの精神を動かす力ではない。彼らは、これらの教説の言葉の響きに対しては習慣的な尊敬を払っているが、これらの言葉からその意味するものへと進み、精神の中に言葉の意味するものを取り入れて、自分を教説の言葉に即応させていこうとするような感情は、まったくもっていない。実際の行為に関する限り、彼らはつねに自分の左右に甲氏あるいは乙氏を探し求めて、どの程度までキリストに従うべきかについて指示を仰ごうとするのである。
 ところで、初期のキリスト教徒たちにおいてはそのようなものではなく、事態は大いに異なっていたと確信してもよいだろう。もしもそのようなものであったとすれば、キリスト教が侮蔑されたユダヤ人たちの名もな・「一宗派からローマ帝国の宗教にまで拡大することは決してなかったであろう。キリスト教徒の敵でさえ、「見よ、彼らキリスト教徒はいかに互いに愛しあっていることか」(今日では誰も口にしそうにはない言葉)といった時代においては、キリスト教徒たちはたしかに、キリスト教の信条の意味に関して、それ以後のいかなる時代にも見られなかったほど生き生きした感情をもっていた。現在のキリスト教が、その勢力範囲の拡大という点ではほとんど何の進展も見せることなく、十八の世紀を経過したあとも依然としてほとんどヨーロッパ人とヨーロッパ人の子孫とに限られているのは、おそらく主としてこの点に問題があるためであろう。キリスト教の教説に関して非常に真摯であり、またその教説の多くに対して一般人よりもはるかに大きな意味を認めている厳密に宗教的な人物でも、普通、彼らの精神の比較的に能動的な部分は、カルヴィン、ノックス、その他彼ら自身と性格の近い指導者の直接的な影響によるものなのである。キリストの言葉は、彼らの精神の中に、受動的に併存しているだけで、優しい耳ざわりのよい言葉に耳を傾むけるときの気持以上にはほとんど何の効果も生み出さない。ある宗派が旗印としてかかげる特定の教義が、公認されたすべての宗派に共通の教義よりも、より多くの活力を保持しているのは何故か、また教師たちがこのような教義の意味を活かしておくためにより多くの努力を払うのは何故か、については、もちろん多くの理由が存在している。だが、一つの理由は、特殊な教義はより多く論争の的となるし、また公然の反対者に対する弁護がよりいっそう必要となるからである。戦場に一人の敵も存在しなくなると、教える者も学ぶ者もともにその持ち場で眠りはじめる。
 概していえば、同じことはすべての伝統的教説に――打算的分別と世間的知識とに関するものにも、また、道徳や宗教に関するものにも――当てはまる。すべての言語と文学とは、人生に関し、人生とは何であるかについて、また人生においていかに身を処すべきかについて、一般的な教説に満ちている。誰もがそれを知っており、繰返し口にし、あるいはただ黙ってそれを聞き、また陳腐なきまり文句として受け入れているのだが、大多数の人びとは、この教説の意味を実体験――一般には苦しい体験――したとき、はじめてその教説の意味を知るのである。人が思わぬ不幸や失望に悩んでいるとき、平素熟知していた格言や俚諺を思い起・キことがしばしばある。その格言の意味を過去に今ほど痛感していたなら、彼はおそらくその災厄をまぬかれていたであろう。もちろん、そのような事態が起るについては、それ以前に論議が欠けていたこと以外にも、さまざまな理由がある。自己の経験によってそれを痛感するまでは、その意味を十分に体得することができないような真理が数多く存在している。だが、このような真理についても、その意味を実際に理解している人びとによって戦わされる賛否両論をつねに耳にしていたなら、その意味のはるかに多くが理解されていただろうし、また理解された部分ははるかに深く精神に印象づけられていただろう。ある事柄についてもはや疑問がなくなると、それについて考えることを止めてしまうという人類の宿命的な傾向は、人類の誤謬の半ばを生み出す原因である。現代のある作家は、「確定された意見の深い眠り」といったが、まことに至言である。
 だが、次のような反問が出されるかもしれない。何ということだ!意見の一致の存在しないことが正しい知識の欠くべからざる条件だというのか?誰もが真理を体得するようになるためには、人類の一部分が誤謬を固執することが必要だというのか?ある信仰が一般的に受容されると、それは真実にして生命あるものではなくなるというのか?ある命題について何らかの疑念が残っていない限りは、その命題が十分に理解され感得されることはないというのか?人類が一致してある真理を受け入れるや否や、その真理は人類の心の中で滅び去るのか?これまで考えられてきたところでは、進歩した知性の最高の目的であり、また最善の結果でもあるのは、人類がますます結束して一切の重要な真理を承認するようになることである。だが、その知性は、それがその目的を達成しないあいだだけ、存続するものなのか?勝利の成果は、勝利の完成そのものによって死滅することになるのか?
 私は決してそのようなことを主張するものではない。人類が進歩するにしたがって、もはや論争や疑問の対象とはならなくなった教説の数は絶えず増加していくだろう。そして、人類の幸福は、論争の余地を残さないほどの確実さに到達した真理の数と重要性によって測られるといってもよいだろう。真剣な論争の対象であった問題が次次と論争の対象から外れていく。それは意見の統合に必然的に随伴する現象の一つである。そしてこのような意見の統合は、それらが誤謬である場合は危険であり有害であ・驍ェ、それらが真実である場合は有益である。だが、このようにして意見の多様性の範囲が徐々に狭められていくことは、言葉の二重の意味において必然的――不可避的という意味と不可欠的という意味――ではあるが、だからといって、その結果のすべてが有益である、と結論づけなければならないわけではない。ある真理を反対者たちに対して説明したり弁護したりしなければならないというのは、その真理の明快で生き生きした把握を大いに助けるものであり、そのような助けを失うことは、その真理が普く承認されるという利益を打ち消すほどではないにしても、真理の生き生きした把握を少なからず減殺するものではある。このような利便がもはや得られない場合には、人類の教師たちに、それに代るべきものを提供するよう努力してもらいたいものである。すなわち、教えを受ける者が、問題の難点を、あたかも彼の改宗を熱望している反対派の闘士からそれが突きつけられているかのように感じとることができるような仕組を考えてもらいたいものである。
 だが、教師たちはこのような仕組を考えるどころか、かつて自分たちがもっていた仕組をも手離してしまった。プラトンの対話篇の中に見事に示されているソクラテスの弁証法は、この種の仕組の一つである。この弁証法の本質は、哲学と人生双方の重要問題に関する否定的討論であり、世に行われている陳腐な意見を単に鵜呑みにしているにすぎない人に対して、彼がその問題を理解していないことを――彼が信奉していると公言している教説の明確な意味がまだ把握されていないことを――納得させるために、この上ない巧みなやり方で行われたものであった。それは、当人がその無知を自覚し、教説の意味と教説の証拠とに関する明晰な理解に基づいた揺がぬ信念を得ることができるようにするためであった。中世の大学における討論もある程度同じような目的をもっていた。この討論は、自分の意見と、(必然的に関連のある)反対意見に対する学生の理解を確実なものにし、自分の意見の論拠を強固にし、反対意見の論拠を論破できるようにすることを目的としていた。いうまでもなく中世の大学における討論には、依拠すべき前提が教権によって与えられたものであって、理性によって与えられたものではない、という根本的な欠陥があった。また精神鍛錬の方法としては、あらゆる点において、ソクラテス学派の人びとの知性を形成したあの強力な弁証法には劣っていた。だが、・サ代精神は一般に思われている以上にはるかに多くの恩恵を、右の二つの方法に負うていて、しかも現代の教育方法は、いささかでもこれらに代りうるようなものは何一つもっていない。一切の教えを教師や書物に仰いでいる人は、たとえ詰めこみ知識をもって満足しようとするおち入りやすい誘惑をまぬかれたとしても、問題の両面の主張にどうしても耳をかさなければならないとは決して思わない。したがって思想家たちの間でさえ盾の両面を知ることは、ほとんど実行されていない。また、どのような人でも、自説を弁護する議論の中でもっとも脆弱な部分は、反対者に対する答えの部分である。否定論法――相手の理論上の弱点または実践上の誤謬を指摘するが、積極的な真理を確立するものではない論法――の軽視は、現代の流行である。たしかに、このような否定的批判は最終的な結論としては不十分であろう。だが、その名に値する積極的な知識や確信に到達するための手段としては、この方法はいかに高く評価しても、しすぎることはない。世の人びとがもう一度組織的に訓練を受け、この論法を身につけるようにならなければ、数学や物理学以外の学問領域では、卓越した思想家はほとんど現われないだろうし、知性の一般的水準も低いところにとどまっているだろう。数学や物理学以外の一切の問題に関しては、反対者と実際の論争を行なうに際して必要とされる精神作用と同じ精神作用を他人によって強制されたり、自ら進んで経験したりしたことがない限りは、どのような人の意見といえども知識の名に値しない。したがって、それが存在しない場合には、それを作り出すことがぜひとも必要であり、しかもそれを作り出すことは実に困難なのである。それが自ら進んで現われてくるときに、それを放棄するなどとは、愚かの極みというべきであろう!一般に受け入れられている意見に対して抗議する人びと、あるいは、法律乃至は世論が許すなら抗議するつもりの人びとが存在するなら、われわれは彼らのその抗議に対して感謝し、われわれの心を開いて彼らの言葉を傾聴しなければならない。それに、いささかでも自分の確信の確実性や生命力を尊重するなら、彼らがいない場合には多大の労苦を重ねながらも自分でやらなければならないことを、代ってやってくれる人があるというのは、実に喜ばしいことである。
 さて、多様な意見の存在が有益であることの主要な理由について、なお一つ述べておかなければならないことがある。・。日では予測しがたいほどの遠い先のことと考えられる知的進歩の段階に人類が到達するまでは、その理由は依然効力を失わないだろう。われわれはこれまで二つの可能性のみを考えてきた。一つは、広く受け入れられている意見が誤りであり、したがって他の意見が真実であるかもしれないという場合であり、いま一つは、広く受け入れられている意見が真実ではあるが、その真実性を明確に理解し深く感得するためには、反対論の誤謬と戦うことが欠くべからざる条件である、という場合である。だが、これらの場合のどれよりもより一般的な場合がある。すなわち、相矛盾する説のうち、一つは真実、他は誤りというのではなく、両者が真理を分有している場合である。広く受け入れられている意見は真理の一部分を表現しているにすぎず、真理のうちのそれには欠けている部分を補完する、一般的な意見とは別の意見が必要とされる場合である。感官によって知覚することができない問題に関しては、一般民衆の意見は真実であることもしばしばあるが、それらが完全な真理であることはほとんどない。それらは真理の一部分にすぎない。時には比較的大きい部分であり、時には比較的小さい部分であるが、両者あわせて初めて完全な真理となる当の真理部分から切り離されており、いきおい誇張されたり歪曲されたりしていている。一方異端的な意見はたいていこれら抑圧され無視されてきた真理のうちの一部であり、自分を抑圧してきた羈絆を打ち破って出てくるのである。そして、ある場合には一般的な意見の中の真理と調和をはかろうとするし、さもなければ一般的な意見に敵対して立ち、同様の排他的態度で自らを完全な真理として主張しようとする。これまではこの後の場合が多かった。人間の精神は一面的であることが通例であり、多面的であることは例外だからである。したがって世論の変革が起るときでも、たいていは、真理の一部分が姿を現わし、他の部分は影をひそめる。進歩というものは、一つの部分的で不完全な真理の上にもう一つの部分的で不完全な真理がつけ加わるはずのものだが、その進歩でさえ、一つの部分的で不完全な真理の代りに、他の部分的で不完全な真理が置きかわるにすぎない場合が多い。この場合改善が見られるのは主として、新たな真理の断片の方が置きかえられた前の断片よりもより必要とされ、時代の要求により適合している点である。一般に行われている意見は、それが真の基礎に基づいているときでも、・アのように部分的なものであるから、一般的意見に欠けている真理の部分が多少ともその中に表れている意見は、たとえいかに多くの誤謬や混乱がまじっていても、どれも貴重なものと考えなければならない。われわれが無視していた真理をわれわれに気づかせてくれた人びとが、われわれが知っている真理を無視したからといって憤慨することはないと、人間世界のことを冷静に判断する人は思うだろう。むしろ彼は、一般に流布している真理が一面的である限り、一般に受け入れられていない真理にも一方的な主張者がある方が望ましい、と考えるだろう。この一方的な主張者は通常極めて精力的な人びとで、彼らがあたかも完全な真理であるかのように主張する知識の断片に、気乗りのしない人たちの注意を向けさせることのできる人びとだからである。
 たとえば、十八世紀においては、ほとんどすべての教育ある人びとや、教育のない人びとのうち彼らによって指導されたすべての人びとは、われを忘れていわゆる文明なるものを讃美し、近代の科学、文学、哲学の驚異を讃美し、近代人と古代人との相違をはなはだしく過大評価するとともに、その相違点のすべてにおいて自分たちの方がまさっていると信じていた。このとき、ルソーの逆説が爆弾のごとく一面的な意見の密集体のどまん中に炸裂し、その衝撃によってこの密集体は攪乱され、その各要素は新たな構成要素を加えて、いっそうよい形に再結合せざるをえなくなった。だが、それは非常に有益なことであった。といっても、当時一般に行なわれていた意見が、全体としてルソーの意見よりも真理に遠かったというのではない。むしろ逆にルソーの意見よりも真理に近かったのである。すなわちその中の明確な真理はルソーの意見の場合よりも多く、誤謬ははるかに少なかった。それにもかかわらず、一般的な意見に欠けていた真理、まさにその真理が、相当多くルソーの説の中に存在し、ルソーの説とともに意見の流れの中を流れ下ってきたのであった。そしてこれらの真理こそ、洪水がひいたあとに残された沈殿物なのであった。簡素な生活の優れた価値、人工的な社会の束縛と偽善がもたらす、人を無気力にし道義を頽廃させるような影響、これらはルソーの著書が現われて以後、教養ある人びとの心から忘れ去られたことのない思想である。これらの思想は、やがてその時がくれば、それが当然生み出すべき成果を生み出すことになるだろう。だが、これらの思想は現在もなお依然と・オて力説され、さらに行為によって主張される必要がある。この問題については、言論の力はほとんど出し尽くされてしまったからである。
 政治においても、秩序または安定を標榜する政党と、進歩または革新を標榜する政党とが、政治生活の健康な状態にとってはともに必須の要素であることは、ほとんど取り立てていうまでもないだろう。いずれか一方の政党がその精神的包括力を拡大し、秩序と進歩とをともに主張する政党となり、保存すべきものと廃止すべきものとを見分けることができるようになるまでは、それが必要である。これら二つの考え方のいずれもがそれなりに有用なのは、相手方に欠陥があるからであるが、一方二つの考え方のいずれもが理性を失わず常軌を逸することがないのは、主として相手の反対があるからである。民主政治と貴族政治、財産と平等、協力と競争、奢侈と節欲、社会性と個人性、自由と統制、その他実生活での一切の不断の対立に関して、それぞれの側に賛成する意見が同じように自由に表明され、同様の才能と精力によって強調され弁護されなければ、双方がその正当な扱いを受ける機会は存在しない。一方は必ず不当に高い扱いを受け、他方は必ず不当に低い扱いを受けることになる。人生の重要な実際問題では真実の探求とは、反対説どうしをいかに融和させ結合させるかにあり、一方これと正確さを求めることとの調整をはかることができるほど包容力の大きな公平な心を備えた人物は極めて稀れである。そこで反対説どうしの融和と結合は、敵対的な旗幟の下に戦う戦士たちの闘争という手荒い方法によって行われることになる。右に列挙した重要な解決のつかない問題(民主政治と貴族政治、財産と平等、協力と競争等々)のいずれについても、相対立する二つの意見のうち、一方が他方よりも寛大に扱われるだけでなく、とくに鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは、その時その処においてたまたま少数意見の立場におかれているものでなければならない。このような意見こそ、無視されている利益、すなわち不当な評価を受けるおそれのある人間の幸福の一側面を当面代表している意見なのである。わが国では、これらの問題の大部分について意見の相違に対する不寛容は存在していないことは、私も承知している。これらの問題をここに挙げたのは、人知の現状においては、真理のすべての側面に対する公正な扱いは、多様な意見を通じてのみ可能であるという事実が普遍的なものであるこ・ニを、一般に認められている多数の実例をもって示すためである。どのような問題にせよ、世間一般の明らかに一致した意見に対して、その例外をなしている人びとが存在する場合には、たとえ世間の方が正しいとしても、それらの反対論者の方にも、つねに聞くに値いするいい分があるだろうし、彼らが沈黙すれば、真理はそれによっていつも失うものがあるのである。
 以上の議論に対して次のような反論が出るかもしれない。「だが、広く受け入れられている原理のうちのあるものは、とくに最高最重要の問題に関するものは、半真理以上のものである。たとえばキリスト教の道徳は、道徳問題に関しては完全な真理であり、これと異なる道徳を教える者は完全に誤っている」と。これはあらゆる事例のうち、実際上もっとも重要な事例であり、普遍的原理を吟味する上でこれ以上適切な事例はない。だが、キリスト教道徳がいかなるものか、また、いかなるものでないかを明言するに先立って、キリスト教道徳という言葉の意味するものは何かをはっきりさせておくことが望ましいだろう。それが新約聖書の道徳を意味するとすれば、新約聖書そのものからその道徳についての知識を得た人であれば、新約の道徳が完全な道徳の教えとして表明されたものであるとか、それを意図したものであるなどとは、誰も思わないだろう。福音書はつねに在来の道徳を引き合いに出していて、福音書独自の教えは、在来の道徳がより広汎なより高次な道徳によって訂正されたり、置きかえられたりしなければならなかった点に限られている。そのうえ、福音書は極めて大まかな語句で表現されていて、字義どおりに解釈できないことが多く、立法のような正確さよりも、むしろ詩歌や雄弁のもつ印象強さをもっている。倫理説の一体系を福音書から抽き出すことは、旧約聖書の内容をもって補足しない限り到底不可能である。しかもその旧約聖書たるや、いかにも精巧な体系ではあるが、多くの点で野蛮だし、野蛮な一民族のみを対象としたものなのである。聖パウロは、福音をユダヤ的に解釈し、主の計画をユダヤ的に補完するこのような方法に対しては公然と敵意を表明していたが、彼とても同じように在来の道徳、すなわちギリシャ人とローマ人の道徳を採用していた。彼がキリスト教徒たちに与えた忠言は、いちじるしくギリシャやローマの道徳に順応したものであって、奴隷制度を明らかに是認しているほどである。普通キリスト教道徳と称されているもの、・゙しろ神学的道徳と呼ばれるべきものは、キリストや使徒たちが作り出したものではなく、その起源ははるか後年のもので、最初の五世紀の間にカトリック教会によって徐々に作りあげられたものである。近代人と新教徒はこれを盲目的に採用したわけではないが、彼らの行った修正は、予想されていたよりもはるかに少なかった。事実多くの場合、彼らは中世の時代にキリスト教道徳に付け加えられた部分を削除することで満足し、各宗派は自分らの性格と傾向に適合する新たな付加物で、その欠を補ったのである。私は、人類がこのようなキリスト教道徳とその初期の教師たちとに対して大きな恩義を負っていることを決して否定するつもりはない。だが、私はこの道徳について、次のようにいうことを躊躇しない。すなわち、キリスト教道徳は多くの重要な点で不完全で一面的であり、この道徳が承認しない思想と感情がヨーロッパ人の生活と性格の形成に寄与しなかったとすれば、人間生活は現状よりも悪い状態におかれていたであろう、と。いわゆるキリスト教道徳は、反動のもっている一切の特徴をもっている。この道徳の大部分は異教に対する抗議である。その理想は積極的であるよりもむしろ消極的であり、能動的であるよりもむしろ受動的である。高貴であるよりも無垢であろうとし、精力的に善を追求するよりも悪より遠ざかろうとする。その教訓(適切にもそうよばれているとおり)では「汝・・・すべからず」が「汝・・・すべし」よりも不当に優位を占めている。この道徳は官能性を恐れるあまり禁欲主義を崇拝し、禁欲主義は徐々に法的な義務の一つにまでなっていった。この道徳は、人を有徳の生活に向わせるための公定の適切な動機づけとして天国の希望と地獄の脅威を持ち出す。この点でこの道徳は、古代人の道徳の最善のものにくらべてはるかに劣っており、またこの道徳の実践は、人間の道徳に対して本質的に利己的な性格を付与するものといわなければならない。この道徳は、利己的な誘因に訴えて同胞の利益をはかろうとする場合のほかは、各人の義務感情と同胞たちの利益とをまったくきり離してしまうからである。それは本質的に受動的服従の教説であり、既成のあらゆる権威に対する従順を教えこむものである。そして、この権威については、それが宗教の禁止している行為を命ずる場合には、進んでそれに服従すべきではないけれども、そのほかは、それがわれわれ自身に対してどのような害を加えようとも、反抗して・ヘならないし、まして謀反をするようなことがあってはならない、とされているのである。また、もっとも優秀な異教国民の道徳では、国家に対する義務は不当に重視されて個人の正当な自由を侵害するほどだが、純粋のキリスト教倫理では、この重大な義務の分野についてはほとんど言及されることもなく、承認されてもいない。「国内に他にもっと適任の人物がいるにもかかわらず、別の人をその官職に任命する君主は、神に対し、また国に対して罪を犯すものである」という格言をわれわれが目にするのはコーランの中であって、新約聖書ではない。社会に対する義務の観念が近代道徳の中に多少とも認められているとすれば、その起源はギリシャやローマにあり、キリスト教から出たものではない。私生活の道徳においても、雅量、高邁な気魄、人格的威厳、さらには廉恥心というようなものが存在しているとすれば、それはすべて、われわれの教育の宗教的な部分からではなく、純人間的な部分から出てきたのである。公認された唯一の価値が服従の価値であるというような倫理の基準からは、そのようなものは、生まれるはずもなかったのである。
 私は、これらの欠陥はどのような点から考えてもキリスト教倫理に固有のものであるとか、完全な道徳説に欠くことができない要素で、しかもキリスト教倫理には包含されていない多くの要素は、キリスト教倫理とは到底調和の余地はない、などと決して主張するものではない。ましてキリスト自身の教説と教訓をもとにしてそのようなことをいおうとしているのではない。私の信ずるところによれば、キリストの言葉がどのような意図で語られたかについての証拠と見なしうるものは、キリストの言葉そのものの外にはない。またキリストの言葉は、広義の道徳が要求するところと矛盾するところはない。また倫理規範の中ですぐれたものはすべて、キリストの言葉のうちに含ませることができるし、しかもそれには、いままでにキリストの言葉から何らかの実践的行動規則を導き出そうとした人びとがそれに加えた以上の歪曲を、それらの言葉に加える必要はないのである。だが、キリストの言葉は真理の一部分を含んでいるにすぎず、またそのつもりで語られていたのだ、とするのは、右のような考えと少しも矛盾するものではない。すなわち、最高の道徳の本質的要素の多くはキリスト教の創始者の記録された言葉の中には示されていないし、示そうとするつもりもなかったものであり、それらは・ワた、これらの言葉を基礎としてキリスト教会がうち立てた倫理体系の中では完全に無視されているのである。したがって、キリスト教の教義の中にわれわれの行為を導く完全な規則――キリストが認め実行させようと思いながらも、ただその一部を示したにすぎなかった規則――を何としてでも見つけ出そうとするのは、大きな誤まりであると思われる。それに、このような偏狭な考えは、非常に多くの善意の人びとが今やようやくその促進に努力しはじめている道徳的訓練と教育の効果をいちじるしく減殺するものであり、重大な実際的悪弊となってきていると思われる。もっぱら宗教的な型に基づいて人間の精神と感情を育成し、従来キリスト教倫理とともに存在して、それを補足してきた世俗的規準(他に適当な名称がないので、こう呼ぶことにする)、すなわちキリスト教倫理の精神の一部を受けいれるとともに、自分の精神の一部をキリスト教倫理に注入してきた世俗的規準を放棄すれば、無気力で卑劣な奴隷的な型の性格が生み出されることになるだろうと思われる。いな、それは今現に生み出されているのである。このような性格は、自分が至高の意思と見なすものに対しては服従するが、至高善の概念を理解したり、それに共感したりすることはできない。人類に道徳的再生をもたらすためには、もっぱらキリスト教をよりどころとする倫理とは別の倫理が、キリスト教倫理と相並んで存在しなければならない。人間精神の不完全な状態においては真理にとっての利益のためには意見の多様性を必要とする、という定則に対して、キリスト教の体系は、何ら例外をなすものではないと思われる。キリスト教に包含されていない道徳的真理を無視することはやめるからといって、キリスト教が包含している真理を無視しなくてはならないということではない。このような偏見や不注意が生じるなら、それはたしかに一つの弊害である。だが、この弊害は、われわれが必ずしもいつも免れるとは期待できない弊害であり、計り知れない大きな利益に対して支払われる代償と見なさなければならない。真理のある一部分が、自らを真理の全体であると主張することに対しては、当然抗議が行なわれなければならない。抗議する人びとが反撥のあまり、彼ら自身が同じような不正におち入ったとしても、このような一面的な態度は、抗議される側の一面的な態度と同様、遺憾なことではあるが、この場合は大目に見られなければならない。キリスト教徒が異教徒に・・チて、キリスト教に対して公正であれと教えようとするなら、キリスト教徒自身が異教に対して公正でなければならない。文化史に関してごく普通の知識をもっている人びとが熟知している次のような事実、すなわち、もっとも高貴な、またもっとも貴重な道徳的教訓の多くの部分は、キリスト教の信仰を知らない人びとが作りあげたものに加えて、中にはキリスト教の信仰を知って、しかもそれを退けた人びとが作りあげたものもあるという事実を無視することは、真理に対して貢献することではない。
 私は、ありとあらゆる意見の発表を無制限に自由にすれば、宗教的あるいは哲学的セクト主義の弊害は跡を絶つだろうなどと主張するつもりはない。狭量な人物が真剣になって主張する真理というものは、必ず、世の中にはそれ以外の真理は存在しないかのように、とにかくそれを制限したり限定したりできるものは存在しないかのように主張され、教えこまれ、多くの方法で実行されさえもする。あらゆる意見がセクト的になりがちになるという傾向は、もっとも自由な論議によって矯正されるどころか、かえってしばしばいっそう強められ激しくなるものであることは、私も認める。当然認められるべくして認められなかった真理は、反対者と目される人びとによって主張されるがために、かえってますます猛烈に拒否されることになる。だが、このような意見の衝突が有益な結果をもたらすことができるのは、興奮した当事者に対してではなく、より冷静で私心のない傍観者に対してである。真理の一部分どうしの激しい闘争ではなく、真理の一半に加えられるひそかな抑圧こそ、恐るべき害悪なのである。人びとが双方の側に耳を傾けざるをえないときには、つねに希望がある。一方の側だけに注意が向けられるときには、誤謬は硬化して偏見となり、真理自体は誇張されて虚偽となり、真理としての効果を失ってしまう。相対立する意見のうち、一方のみが弁護者をもっている場合に、双方の間に立って賢明な判決を下すことができる裁判官としての能力ほど稀れな資質はない。したがって真理のあらゆる側面、すなわち、真理の各断片を表現するあらゆる意見が、単に弁護者をもつだけでなく、人の傾聴をかちえることができるように弁護されるに応じてしか、真理はその顕現の機会をもちえない。
 今やわれわれは、四つの明白な根拠に基づいて、意見の自由と意見の発表の自由が人類の精神的幸福(人類の他のすべての幸福がそれに・ヒ拠している幸福)にとって必要であることを認識した。以下、簡単にその四つを概括しよう。
 第一に、ある意見に沈黙を強いるとしても、その意見はひょっとすると真実であるかもしれない。そのことを認めないのは、われわれ自身の無謬性を仮定することである。
 第二に、沈黙させられた意見が誤謬であるとしても、それには真理の一部分が含まれているかもしれないし、普通はしばしば含まれているのである。どのような問題についても、一般的な意見や支配的な意見が完全な真理であることは稀れであるか、絶無であるから、真理の残りの部分が補足されなければならないが、それは相反する意見の対決による以外にはない。
 第三に、一般に認められている意見が単に真実であるだけでなく、完全な真理である場合でも、それに対して活発で真摯な反論が許され、実行されるのでなければ、その意見を受け入れている人びとの大多数は、それの合理的根拠を理解したり感得したりすることはほとんどなく、ただ偏見の形でそれをいだいていることになる。
 第四に、教説そのものの意味が失われたり、弱められたりして、人の性格と行為に与える生き生きした効果がなくなってしまうおそれがある場合があるだろう。すなわち、その信条は単なる形式的な口先だけのものとなり、永久に効力を欠き、ただいたずらに場所をふさいで、理性や個人的経験から真実の心からの確信が成長してくるのを妨げることになる。
 意見の自由という問題について論述を終るに先きだち、次のような論者について一言述べておくのが適当だろう。すなわち、あらゆる意見の自由な発表は、態度が穏やかで、公平な論議の限界を越えないという条件の下で許されるべきだ、と主張する論者である。そこでいいたいのは、このような公平な論議の限界なるものをどこにおくべきかについて決定することは不可能だということである。自分の意見を攻撃されている人びとを立腹させることが、公平な論議の限界についての判定基準だとすれば、攻撃が有効かつ強力な場合はつねに相手を立腹させることになるのは経験の証明するところであり、また相手を猛烈に追及して、答弁に窮するようにする反対論者は、彼がその問題について何か激しい感情を示すなら、相手からすれば過激な反対論者のように見える、ということもこれまた経験の証明するところだと思われるからである。ここでいわれていることは、実際的な観点から見て重要な要件ではあ・驍ェ、よりいっそう根本的な議論の中に包含される。もちろん、ある意見がたとえ正しくとも、その意見を主張する態度がはなはだしく不愉快な場合もあるだろうし、その場合は、当然厳しい非難をこうむらなければならないだろう。だが、相手に対する無礼な態度のうち主要なものといえば、偶然表にあらわれるということのない限り、相手がはっきりそうと認識することはたいていの場合不可能なものである。そのうちのもっとも重大なものは、詭弁を弄し、事実や証拠を隠し、事件の要因や相手の意見を間違って述べることである。だが、これらの行為はすべてそのもっともはなはだしいものでも、無知とか無能とかとは考えられない人びと、他の多くの点でも無知とか無能とかとは到底考えられない人びとによってきわめてまじめにずっと行なわれてきているものであり、その誤った陳述を道徳的に咎められるべきものだと十分な根拠に基づいて良心的に断定することは、ほとんどできないだろう。まして不当行為かどうか論議のあるこのような行為に法律が干渉することは、いっそう不可能である。普通不謹慎な議論と呼ばれている罵言、皮肉、人身攻撃などに関しては、双方に対して平等にこれらの武器の禁止を要請するのであれば、これらの武器に対する非難ももう少し同感できるものとなるだろう。だが、これらの武器は、勢力の強い意見に対して向けられるときだけ、抑制が要求される。勢力のない意見に対しては、これらの武器を使用しても世の非難を浴びるどころか、それを使用する人は、ともすれば、誠実な熱意と正当な義憤の人として讃辞を呈されるのである。だが、これらの武器の使用から生じる弊害は、それらが比較的防禦力に欠けた人びとに向けられるときこそ、もっとも恐るべきものとなる。意見を主張する際にこれらの武器を使用して不当な利益を得るのは、ほとんどが一般に認容されている意見の方である。論争する者によって犯されるこの種の不当な行為のうち最悪のものは、反対意見の人びとに対して不正で不道徳な人物という烙印を押すことである。不人気な意見の人びとは、とくにこのような誹謗にさらされることが多い。彼らは一般に少数で勢力が弱く、彼らが正当に扱われることに多大の関心を抱いているものは、彼ら自身以外には誰もいないからである。だが、この武器は、事の性質上どうしても、勢力の強い意見を攻撃する人びとは手にすることができない。彼らは身の安全を賭けることなしに、この武器を使用す・驍アとはできないし、たとえ無事に使用しえたとしても、彼ら自身の主張に対して同じ武器による報復が降りかかってくるばかりだろう。一般に、広く認容されている意見に反対の意見は、つとめて言葉を穏健にし、極めて慎重に不必要な攻撃を慎しむことによってはじめて、耳を貸してもらえるのであり、少しでもこの限度をふみはずせば、ほとんどつねにその地歩を失わざるをえない。だが、勢力のある意見の側は、法外の罵言をたくましくし、そのため人びとは反対の意見を告白することも、反対の意見を述べる論者に耳を貸すこともさし控えてしまう。したがって、真理と正義のためには、勢力のある意見の側の罵言の濫用を抑える方が、反対意見の側の罵言を抑えるよりもはるかに重要である。たとえば、二者のうちのいずれかを選ばなければならないとすれば、不信仰に対する攻撃を思いとどまらせる方が、宗教に対する攻撃を思いとどまらせるよりもはるかに必要だろう。だが、いずれの側に対する攻撃であろうと、法律と官憲とがその抑止に手を出すべきでないことはもちろんであり、一方世論はあらゆる場合に個々の事情に応じて判定を下すべきである。すなわち、論争のいずれの側に与しているかを問わず、非としなければならないのは、その主張の仕方において公平を欠き、悪意、偏執、不寛容の感情があらわれている人びとである。ただし、ある人がある問題に関してわれわれ自身とは反対の側に与していても、その彼の立場から、右にあげたような不道徳行為の存在を推定してはならない。一方、反対者とその意見をありのままに看取する冷静さと、ありのままに陳述する正直さをもっている人びと、また事実を誇張して反対者を不利におとし入れるようなことはせず、反対者に有利となるような、また有利となると思われるようなものは何一つ隠蔽したりなどはしない人びとに対しては、その人びとがどのような意見であろうと、当然敬意を表さなければならない。これこそ公の論議に関する真の道徳である。この道徳はしばしば侵犯されることがあるとはいえ、これを大いに遵守している多数の論客があり、またそれを遵守しようとして良心的に努力している、いっそう多くの論客が存在していることを思うと、私としては喜びにたえない。
  第三章 幸福の要因の一つとしての個性について
 人間は自由に意見を構成し、その意見を自由に腹蔵なく発表することが絶対に必要である。その理由について・ヘ、以上述べたとおりである。また、この自由が認められるか、あるいはこの自由が禁止を冒しても主張されない限りは、人間の知性に対して、またそれを通して人間の道徳性に対しても、いかに有害な結果がもたらされるかということについても以上述べたとおりである。そこで次に、同じ理由から、人間は自分の意見を実行するについても自由でなければならないのではないかという問題を検討することにしよう。ただし、ここにいう自分の意見を実行する自由とは、自分自身の責任と危険とにおいてなされる限り、同胞たちから肉体上精神上の妨害を受けることなく、自分の意見を自分の生活に実現していくことの自由という意味である。この「自分自身の責任と危険とにおいてなされる限り」という条件は、いうまでもなく欠くべからざるものである。行為が意見と同様に自由でなければならないと主張するものは誰もいない。逆に、意見でも、それを発表するときの事情によって、その発表が有害な行為を積極的に煽動するような場合には、自由の特権を失うことになる。穀物商は貧民を餓死させるものだとか、私有財産は強奪であるなどというような意見は、単に出版物を通じて流されるときには干渉すべきでないが、穀物商の店頭に集まっている興奮した暴徒に口頭で伝えられるとか、ビラにしてくばられるとかした場合には、当然処罰の対象となるだろう。どのような種類の行為であろうと、正当な理由なしに他人に害を与える行為は、これに対する反対意見によって、また必要な場合には人びとの積極的な干渉によってこれを抑えて然るべきだし、重大な場合には絶対に抑えなければならないのである。個人の自由はこの程度までは制限されなければならない。個人は他人の迷惑となってはならないのである。だが、他人のことには干渉せずに、ただ自分自身に関することについて自分の好みと判断にしたがって行動している場合には、自分の意見を自分自身の責任において何の干渉も受けずに実行に移すことが認められなければならない。その場合は、意見が自由でなければならないという場合の理由と同じ理由があてはまるのである。曰く、人間は誤りのないものではない。曰く、人間の真理は大部分は半真理にすぎない。曰く、相反する意見を十二分に、最大限に自由に比較した結果出てきたものでない限り、意見の一致は望ましいものではない。また人間が現在よりもはるかに真理のすべての側面を認識しうるようになるまでは、意見の相違は害・ォではなく、むしろためになることである。これらの命題は、人間の意見に対してと同様、人間の行動のあり方に対しても適用できる原則である。人間が不完全である間は、異なった意見の存在が有益であるのと同様、生活上いろいろなことが試みられるのも有益である。他人に害を及ぼさない限り、さまざまな性格に対して自由な活動の余地が与えられること、また、違った生活のやり方を試してみたいと思う人間がいる場合には、そのやり方の価値を実地に証明させること、これらはいずれも有益である。要するに、本来他人に無関係なことについては、個性が自己を主張するのが望ましいのである。行動を律するものが当人自身の性格ではなくて、他人の流儀や習慣である場合には、人間の幸福の主要な要因の一つ、いわば個人的社会的進歩のもっとも重要な要因が欠けていることになる。
 この原理を主張するにあたって、われわれが直面する最大の問題点は、一般に承認されているある目的を達成するための手段が正当に評価されていないという点にあるのではなく、目的そのものに対して一般人が無関心であるという点にあるのである。個性の自由な発展は、幸福の主要な要素の一つであり、文明、知識、教育、教養という言葉であらわされているすべてのものと同格の要素であるばかりか、それ自身がこれらすべてのものの必須の要因であり、条件である。そのことが痛感されていれば、自由が軽視されるおそれはなく、自由と社会による統制との境界の調整についても特別の困難は生じないであろう。だが不幸なことに、一般の考え方によると、個人の自発性が固有の価値をもつもの、あるいは、それ自体として尊敬に値するものであるとは、ほとんど認められていない。大多数の人びとは、現在の人間の習わしに満足している(人間の習わしを現在のようなものにしたのは彼らなのであるから)ので、なぜこれらの習わしがすべての人にとって必ずしも結構なものではないのか、その理由を理解することができない。そればかりか、道徳と社会の改革者の大多数は、自発性は彼らの理想の構成要素ではなく、彼らが人間にとって最善のものと考えているものをあまねく受け入れさせようとしているのに対して、厄介な手に負えないような障害になるものだと、猜疑の念をもって見ているのである。学者として、また政治家として非常に著名な人物であったヴィルヘルム・フォン・フンボルトがある論文の主題とした次のような主張も、その意味する・ニころは、ドイツ以外ではほとんど理解されていない。曰く、「人間の目的――不確かな移ろいやすい欲望が示したものではなく、理性の永遠不変の命令が指示したもの――は、人間の諸能力を最高度に、かつもっとも調和的に発展させて、完全で矛盾のない一つの全体にすることである」、したがって「あらゆる人間が絶えず努力の目標とし、またとくに同胞たちを感化しようと思っている人びとがつねに目を注いでいなければならない」目的は「活力のある発展する個性である」、この目的達成のためには、二つの条件、すなわち「自由と状況の多様性」が必要である、これら両者の結合によって「個性的な活力と多様な変化」が生まれ、これらはさらに相合して「独創力」となると。
 だが、一般の人びとはフォン・フンボルトのような主張にはあまりなじみがないし、個性にこのような高い価値が与えられているのは、彼らにとっては驚くべきことではあるとはいえ、考えなければならないのは、この問題は程度の問題にすぎないということである。何でもかでもただ他人のまねをするだけというのが優れた行為であると思っている者は一人もいない。また、自分の生活様式の中に、あるいは自分自身の問題の処理の中に、自分自身の判断や自分自身の性格をいささかなりとも刻印するようなことはしてはならないと主張するような者も一人もいないであろう。他方、自分がこの世界に生れてくる前には、何事も知られていなかったかのように、また、ある生活様式や行為の仕方が他のそれよりも望ましいものであることを証明するような経験は一回もなかったかのように、生活しなければならないと主張するのは、ばかげたことだろう。われわれは、青年時代に人類の経験の確実な成果を知り、それによって裨益を受けるように教えられ訓練されなければならないことは、誰も否定することはできない。だが、従来の経験を自分独自のやり方で利用し解釈することは、能力の成熟期に達した人間の特権であり、当然の条件である。記録に残されている従来の経験の中で、どの部分が自分自身の環境と性格に適用できるかは、自分で見出さなければならない。他人の流儀と慣習は、ある程度は、彼らの経験が彼らに何を教えたかの証拠――推定証拠――であり、その点でわれわれが敬意を払わなければならないものである。だが、第一に、彼らの経験はあまりに狭隘であるかもしれないし、彼らは自分の経験を正しく解釈していなかったかもしれない。第二に・A彼らの経験の解釈が正しいとしても、それは彼ら以外の人には適合しないかもしれない。慣習は因習的な環境と因習的な性格に向くように作られるものだが、その人の環境や性格は因習的なものではないかもしれない。第三に、その慣習が妥当なものであり、その人に適合するものであっても、単に慣習であるからというのでそれに従うことは、人間独自の天賦の資質をその人のうちに育成発展させるゆえんではない。知覚、判断、識別感覚、心的活動、さらには道徳的選択などの人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである。ただそれが慣習であるからというのでそのことをする人は、何の選択もしていない。そのような人は、最善のものを見分けたり、望んだりすることがまったくできなくなる。知的道徳的能力は、筋肉の力と同様、使用することによってはじめて改善されるのである。単に他人がそれをするからというのでそれをするだけでは、単に他人がそれを信じるからというのでそれを信じるのと同様、これらの能力の働く余地はまったくない。ある意見の根拠がその人自身の理性に納得のいくものでない限りは、その意見を採用することによって、彼の理性は強化されるどころか、かえって弱化されるだろう。彼自身の感情や性格にそぐわないような動機から、ある行為がなされる場合には(この場合、当人の好意や他人の権利は関与しない)、彼の感情や性格を能動的精力的にはしないで、かえって無気力で不活発なものにしてしまう。
 自分の生活の計画を、世間や、自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力も必要としない。自分の計画を自分で選ぶ者こそ、自分の能力のすべてを活用するのである。見るためには観察力を、予知するためには推理力と判断力を、決断を下すのに必要な材料を集めるためには活動力を、決断を下すためには識別力を、ひとたび決断を下した場合には、その考え抜いた決断を堅持するために固い決意と自制心を、それぞれ使用しなければならない。行為のうち自分自身の判断と感情にしたがって決定する部分が大きくなればなるほど、これらの能力がますます必要となり、ますます行使されることになる。これらの能力のどれかを欠いていても、正しい道に導かれることも、有害な道にふみ込まずにいることもできないわけではない。だが、その場合他人と比べた場合の人間としての彼の価値はどうなるだろうか?人が何をなすかという・アとだけではなく、それをなす人がどういう人間であるかということも、実は重要なのである。それを美しいものに仕上げるために人間の一生が正しく使用されなければならない人間の作品の中で一番重要なのは、たしかに人間そのものである。家を建て、穀物を栽培し、戦闘を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建て祈祷することも、機械に――人間の形をした自動機械に――やらせることが可能だとしても、現在この世界の比較的開化した地方に住んでいる男女――これはたしかに自然が今後生み出すことができる人間の貧弱な見本にすぎない――でも、これを右の自動機械と交換することは、大きな損失となるだろう。人間性は、模型にしたがって作り上げられ、あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械ではなく、自らを生命体としている内的諸力の傾向にしたがって、あらゆる方向に伸び広がらなければならない樹木なのである。
 悟性を働かせることが望ましいこと、また慣習の理性的な遵守や時としては慣習からの理性的な逸脱でさえ、盲目的な、単に機械的な慣習の墨守よりもまさっていることは、おそらく人びとの認めるところだろう。われわれの悟性がわれわれ独自のものでなければならないことは、ある程度認められている。だが、われわれの欲望や衝動も、同様にわれわれ独自のものでなければならないこと、われわれが独自のいかに強力な衝動をもったとしても、それは決して危険やつまづきのもとではないということは、同じようには認められていない。だが、欲望や衝動も信仰や自制力と同様、完全な人間の一要素である。強力な衝動が危険なのは、適当にバランスがとれていない場合、すなわち、ある一組の目的と好みが強力になり、それらと当然一しょに存在しているはずの他の目的と好みが弱く不活発なままでいる場合なのである。人びとが悪い行為をするのは、その人の欲望が強力であるからではない。それは良心が弱いからである。強力な衝動は弱い良心と本来結びつくものではない。強力な衝動が本来結びつくのは、弱い良心とは正反対のものである。ある人の欲望と感情が他の人のそれよりも強力で多様であるということは、単に、その人が人間性の素材をより多くもっていて、したがって、多分より多くの悪をなすこともできるだろうが、それよりも、確実により多くの善をなすことができる、ということなのである。強い衝動というのは精力の別名にすぎない。精力は悪用されることもある。だが、精力的・ネ天性は、無精で鈍感な天性に比べて、つねにより多くの善を生み出すことができる。自然的な感情に富んだ人は、必ず洗練された感情もきわめて強い人である。個人的衝動を生き生きした力強いものにする強烈な感受性は、同時に、徳に対する熱烈な愛着と、きわめて厳格な自制心を生み出す源泉である。社会はこのような感受性を啓発することによって、その義務を果し、その利益を擁護できるのであり、英雄を作り出す方法を知らないからというので、英雄を作り上げる素材を拒否していては、社会はその義務を果すことはできない。独自の欲望と衝動をもっている人物、すなわち、その欲望と衝動が彼の独自の天性の表現であり、その独自の天性は独自の教養によって発達し、修正されたものであるというような人物こそ、性格をもっているといわれるのである。独自の欲望と衝動をもたない人は、蒸気機関に性格がないのと同様、まったく性格というものがない。その衝動が独自のものである上に、強力であり、しかも強い意志の制御の下にあるならば、このような人物は精力的な性格をもっていることになる。欲望と衝動とにおける個性の発展を助長してはならないと考える人は、きっと次のように主張するだろう。社会は強力な性情を少しも必要とはしていない――社会は豊かな性格の持主を数多く包含することによって少しもよくはならない――と。そしてまた、社会一般の精力の平均水準が高いことは望ましいことではないと。
 社会の初期のころの状態では、このような力は、それを訓練し制御するために当時の社会がもっていた力をはるかに凌駕していた。自発性や個性という要素が大きすぎて、社会の格律がこれと苦闘していた時代があった。当時の困難は、強力な肉体や精神の持ち主を説いて、何とかして彼らの衝動の制御を命じる規則に服従させることにあった。この困難を克服するために法律と秩序は、皇帝たちと争っている法王のように、全人格に対する支配権を主張し、その人の性格を制御するためにはその人の生活全体を制御することが必要だと主張した。各人の性格を束縛するためには、社会としては、これ以外に十分な方法を見出すことはできなかった。だが、今や社会は個性をどうやら征服してしまっている。したがって、人間性を損なうおそれのある危険は個人的衝動や好みの過剰ではなく、その欠乏なのである。かつては身分や個人的資質によって強者であった人びとの情熱は、法律や命令に対して不断の反抗を試み・A彼らの勢力圏内に生きている人びとが少しでも安全な生活を享受するためには、その情熱を厳重に束縛する必要があったのだが、いまや事態は大きく変化している。現代においては、社会の最上流階級から最下流階級に至るまで、あらゆる人びとが敵意あるいとわしい検閲の下に生活している。他人に関する事はもちろん、自分自身に関する事についても、各個人や家族が自問しているのは、自分の欲するものは何か、自分の性格と気質に適しているものは何か、自分の最善最高の資質を十分に活動させ、その成長と発展を可能にするものは何か、ということではない。彼らが自問しているのは、何が自分の地位にふさわしいことか、自分と同様の身分や経済状態の人びとが普通していることは何か、(いっそうよくないことだが)自分より上の身分や境遇の人びとは普通どんなことをしているのか、ということである。私がいっているのは、彼らは自分の好みに適しているものよりも、慣習化しているものの方を選ぶということではない。彼らは、慣習化しているもの以外には好みなどというものは何ももとうとはしない。したがって精神そのものが軛につながれているのである。娯楽のためにすることでさえ、第一に思いつかれるのは、世間の習俗に従うということである。彼らの好みは大勢の好みである。彼らは、世間一般に行われていることの範囲内だけで選択を行う。特異な趣味や奇矯な行為は、犯罪と同様に忌避される。そして終には、自分の天性に従わないことによって、従うべき天性を何ももたなくなる。彼らの人間的能力は萎縮し衰える。彼らは強い欲望や素朴な楽しみをもつことができなくなり、たいてい自分本来の意見と感情、まさしく自分自身のものである意見と感情が欠如してしまう。ところで、このようなことは、果して人間性の望ましい状態なのだろうか?
 カルヴィン派の理論では、これは望ましい状態なのである。この理論によれば、人間の唯一の重大な罪科は我意である。人間のなしうる一切の善は服従のうちにある。汝は選択の自由をもっていない。汝はこれこれこのようになさねばならず、違ったやり方でしてはならない。「およそ何ごとであれ、義務でないものはすべて罪悪である」。人間性は根本的に腐敗しているのであるから、彼のうちにある人間性が殺しつくされるまでは、いかなる人にとっても救いは存在しない。このような人生観をいだいている人にとっては、人間のいかなる能力、力量、感受性を押しつぶ・キことも決して害悪ではない。人間は自己を神の意思に委ねる能力以外にはいかなる能力も必要としない。この神の意思なるものをより効果的に遂行するという目的以外のために、その能力を使用するとすれば、そのような能力はもたない方がよい。これがカルヴィン派の理論である。そしてこの理論は緩和された形でではあるが、自分ではカルヴィン教徒と思ってはいない多くの人びとにも保持されているのである。この緩和された形のものは、神の意思なるものに対してカルヴィン教徒ほど禁欲的解釈を加えず、人間がその好みの一部を満足させることは神の意思であると主張する。もちろん、その好みの一部を満足させるといっても、人びと自身が好むような方法でではなく、服従という方法によって、すなわち権威者が指定――この場合の必要条件――した方法で、したがって万人にとって同じ方法で満足させなければならないのである。
 今日では、このような偏狭な人生観と、それに支えられた頑迷狭量な人間性格とに傾いていく強い傾向が、右に述べたような油断のならない形で存在している。疑いもなく多数の人びとが、このような窮屈で萎縮した人間こそ造物主の意図したとおりの人間である、と本気で信じている。それは、ちょうど、樹木は自然のままよりも刈りこまれたり、動物の姿に切りそろえられたりした方がずっと見事である、と多くの人が考えてきたのに似ている。だが、人間は善なる神の被造物であると信じることが宗教の一要素であるとすれば、次のように信じることこそ、この信仰によりいっそう一致しているはずである。すなわち、この善なる神が人間にいろいろな能力を付与したのは、それを抜きとり消滅させるためではなく、啓発し伸長させるためであり、被造物が自分自身のうちに織りこまれている理想像に向って一歩一歩近づいていき、理解、行動、享楽の能力を増大させていくことに神は喜びを感じられるのだ、と信じることである。カルヴィン主義の型とは違った人間的卓越の型があるのである。すなわち、人間性というものは単に捨てさるためではなく、他の目的のために人間に与えられたものであるという人間についての概念である。「異教徒の自己主張」は「キリスト教徒の自己否定」と同様、人間的価値の要素の一つである。ギリシャ的な自我発展の理想というものがある。プラトン的キリスト教的克己の理想はこれと混じりあうことはあるが、これにとって代るものではない。ジョン・ノックスのよう・ネ人物は、アルキビアデスのような人物よりもまさっているだろうが、そのいずれよりもペリクレスのような人物の方が、まさっている。現代にペリクレスのような人物があらわれるとすれば、彼は、ジョン・ノックスの備えていた長所をすべて備えていることだろう。
 人間が高貴で美しい姿をあらわすようになるのは、彼自身のうちにある個性的なものをすべてすりへらして画一的なものにしてしまうことによってではなく、他人の権利と利益によって画された限界の範囲内で個性的なものを啓発し、よび起すことによってである。そして、人間のすることはそれを行う人びとの性格を分けもつものであるから、右と同じ過程によって、人間の生活もまた豊富で多彩で生気溌溂としたものとなり、高い思想と崇高な感情により豊かな栄養を与え、さらに民族をますます所属するに値するものにし、すべての個人を民族に結びつける紐帯をいっそう強いものにする。個性の発展するのに比例して、各人は自分自身にとっていっそう価値あるものとなり、その結果、他人にとってもいっそう価値あるものになる。各人の存在は、生命のいっそう充実したものとなるのである。そして各構成単位にいっそう多くの生命が宿るとき、それら構成単位から成る集合体にもいっそう多くの生命が宿るようになる。人一倍強い人間性の持ち主に他人の権利を侵害させないようにするために必要な限りでの抑圧は、欠くことはできない。だがこれに対しては、人間的な発展という観点から見ても、十分にこれを償うものがある。個人の好みの満足が他人を害するというので禁止される場合、それによって失われる発展の手段は、主として他人の発展を犠牲にして得られる手段である。抑圧を受けた個人としても、性格の利己的な部分に抑圧を加えられれば、それによって社会的な性格部分がよりよい発達をとげることが可能になるという点で、十分それに見合うだけのものが与えられる。他人のために厳格な正義の規則を遵守させられることは、他人の幸福を考慮の対象に入れることのできる感情と度量を発達させる。だが、他人の幸福に影響しない事柄に対して、単に他人がそれを不快に思うからというので加えられる抑制は、その抑制に対する反抗の中であらわれるような性格の力以外には、何の価値あるものも発達させることはない。もしも黙従するならば、人間の天性の全体が遅鈍となり、鋭さを失う。各人の天性に対して公平な活動の余地を与えるためには、さまざまな・lびとにさまざまな生活を営ませることが、根本的に必要である。どのような時代であれ、どれだけこの自由が行使されたかに応じて、その時代は後世にとって注目に値するものとなっている。専制政治でも、その治下に個性が存在している限りは、その最悪の結果はまだ生み出されてはいない。個性を破砕するものは、それがどのような名前で呼ばれようと、神の意思を強制しようとしているのだといおうが、人間の命令を強制しようとしているのだといおうが、それは専制政治である。
 個性は発展と同義のものであること、十分に発展した人間を生み出すもの、生み出すことができるものは、個性の養成のみであることについては、すでに説きおわったので、ここでこの議論をうち切ってもよいだろう。人間生活の条件に関して、これこそが人間自身を人間が到達できる最善の状態に近づけるものだと述べれば、それ以上にいうべき言葉、それ以上のよい評言はないからである。また、善に対する障害物に関して、人間が到達できる最善の状態に近づくことを阻止するものだと述べれば、それ以上に悪い評言はないからである。だがもちろん、以上に述べた考察だけでは、自由の尊ぶべき所以を確信させることがもっとも必要な人びとを確信させるにはまだ足りないだろう。さらに、これら個性の発展した人びとは、個性の発展の遅れた人びとにとっても役に立つことを示すことが必要である。すなわち、自由を望まず、また自ら自由を活用しようとも思わない人びとに対して、彼らが他の人びとに何の妨げもなく自由を活用させれば、それに対して彼らは明白な形でそれだけの報償を得ることを、指摘してやる必要がある。
 そこでまず第一に、個性の発展の遅れた人びとは、個性の発展した人びとからおそらく学ぶところがあるだろうということを示すことにしよう。独創力が人間生活において大切な要素であることは、誰も否定しないだろう。新たな真理を発見して、かつては真理であったものがもはや真実ではないことを指摘するだけでなく、新たなことを始めて、より進んだ行為の実例やさらには人生におけるよりよい趣味や感覚の実例を示すことができるような人物がつねに必要である。世界のすべての慣例がすでに完成の域に達しているとは思っていない人であれば、このことは当然否定しないだろう。もちろん以上のような貢献は、あらゆる人びとが同じようになしうるものではない。その人の試みが他の人に採用された場合には、既・カの慣習に改善をもたらすことになるというような人は、人類全体に比較すればきわめて少数にすぎない。だが、これらの少数者こそ地の塩なのである。彼らが存在しなければ、人生は澱んだ水たまりになるだろう。彼らは、従来存在しなかったよきものを導入するばかりではない。すでに存在しているよきものの中の生命を維持するのも彼らなのである。新たになされなければならないことは何一つないとしたら、人間の知性は必要なくなるのではないか?新たになされなければならないことが何一つ存在しなくなれば、古くからのことをしている人びとは、なぜそれをするのかを忘れて、人間のようにではなく、ただ家畜のようにそれをつづけていくようになるのではないか?優れた信仰や慣習においても、機械的なものに堕していこうとする傾向があまりにも大きすぎる。したがって、このような信仰や慣習の根拠が単なる伝説的なものになるのを、たえず再起する独創力によって防止する人物がつぎつぎとあらわれない限り、死物と化したこのような信仰や慣習は、真に活力に満ちているもののごくごく小さな衝撃にも抵抗できなくなるだろう。ビザンティン帝国に見られるように、文明が死滅しないという理由は何ら存在しないのである。 天才を具えた人物は、たしかにきわめて少数だし、これからもつねに少数にとどまるだろう。だが、その少数の天才を確保するためには、彼らが成長することができる土壌を残しておくことが必要である。天才は自由の雰囲気の中でのみ自由に呼吸することができる。天才を具えた人物は、天才であるが故に他のいかなる人びとよりも個性的である。したがって、社会がその成員たちに、各々独自の性格を形成する労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才を具えた人物が自分を適合させようとすれば、他の人びと以上に有害な抑圧をこうむらずにはいない。彼らが心臆してこれらの鋳型に押しこまれることを承知し、このような抑圧の下では伸びることができない彼らの素質をすべて伸びないままにしておけば、社会は彼らの天才によって益するところはほとんどなくなるだろう。彼らが強い性格の人物であり、束縛を打ち破るようなことになれば、彼らは、彼らを凡俗化できなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」などと指摘され、厳重な警告を受けることになる。それはちょうど、ナイヤガラ瀑布がオランダの運河のように静かに堤防のあいだを流れないのを非難するようなものである。
 私は以上のように、天才が重要なこと、思想においても実践においても天才に自由に自分を発揮させることが必要であることを強調してきた。それは、理論の上では誰もこの主張を否定しないことは十分承知しているが、実際は、ほとんどの人がこの主張にまったく無関心であることをよく知っているからである。天才に恵まれた人が人を感動させる詩を書いたり、繪をかいたりすると、世人は、天才はよいものだと思う。だが、天才の真の意味、すなわち思想と行動における独創性という意味においては、ほとんどの人は――天才など何も感嘆するようなものではないなどとは誰もいいはしないにしても――心の底では、自分たちは天才などなくても十分やっていけると思っている。遺憾ながら、これは当然至極であって、怪しむには足りない。独創性は、まさに、独創的でない人びとにはその効用は実感できないものである。彼らは、独創性が彼らにとって何の役に立つのか、理解できない。どうしてそのようなことが彼らに理解できよう。独創性が彼らにとって何の役に立つのかが彼らに理解できれば、それは、もはや独創性ではない。独創性が彼らにとってまず第一に役立つことは、彼らの目を開かせることである。これがひとたび十分になされれば、彼ら自身が独創的になることができるだろう。そのときの到来するまでは、彼らは、誰かがはじめに手をつけない限りどのようなこともなされたためしがないこと、また現存する一切のよいことは独創性の成果であることを想起し、謙虚な態度で、今後も独創性がなしとげなければならない仕事がなお残されていることを信じ、独創性の必要を自覚することが少なければ少いほど、実はますますそれを必要としているのだと確信すべきである。
 真の、または想像の上での、精神的卓越に対してどのような敬意が口にされたり、実際に払われたりしようとも、全世界を通じて見られる世間一般の傾向としては、凡庸が人類の間でますます優勢になってきているというのが、現実の姿なのである。古代史においても、中世においても、また漸次その程度を減じてきているとはいえ、封建制から現代に至る長い期間においても、個人は本来一個の力であった。個人が大きな才能か、高い社会的地位をもつ場合には、彼は無視できない力であった。だが現代では、個人は群衆の中に埋没してしまっている。政治においては、今や世論が世の中を支配しているなどというのは、ほとんど陳腐ないいぐさになって・「る。力の名に値する唯一の力は大衆の力であり、政府が大衆の傾向と本能の道具となっている場合には、それはまた政府の力である。公共の業務の処理においてだけでなく、個人生活の道徳的社会的関係においても同様である。その人たちの意見が世論として通用している人びとは、必ずしも同種類の公衆であるとは限らない。アメリカでは白人全体であり、イギリスでは主として中産階級である。だが、彼らはつねに大衆すなわち凡庸者の集団である。さらに注目すべき新事態は、その大衆が今日では、教会や国家の高位高官からも、指導者といわれる人からも、書物からも、自分の意見を借りてこないことである。大衆に代って考えているのは、一時の興に駆られて新聞を通じて大衆に呼びかけたり大衆の名において語っている、大衆に非常によく似た人びとである。私は何もこういう事態をすべて嘆かわしく思っているわけではない。人間精神が現在のように低級な状態の下では、一般的原則として、これ以上のよい事態が現状と相容れることができるなどとは、私は主張しない。さりとて、凡庸者の行う政治が凡庸な政治であることを否定するわけにはいかない。民主制や多数貴族制による政治は、主権者である多数者が、より高い資質を具えた教育のある一人または少数者の忠言や感化力に指導されない限りは(多数者が最良の政治を行っていた時代には、彼らはつねにこのような指導に服していた)、政治活動においても、それが育成する意見や資質や精神状態においても、凡庸の域を出たことは一度もなかった。賢明な、または高貴な事物のすべては、個人によって始められたものであり、また個人によって始められざるをえないものである。しかもたいていは、最初はある一人の個人によって始められたのである。普通人の名誉と光栄は、彼らがその創始者のあとにつづくことができること、賢明なまた高貴な事物に対して内心から共感することができ、進んでこのような事物のところまで導かれていくことができること、にある。私は、強力な天才が力をもって世界の政治をその手におさめ、世界自身のことなど頓着せずに全世界を自分の命令に服させるのを称賛する、というような「英雄崇拝」を是認するものではない。彼が要求できることは、道を示すことの自由のみである。他の人びとを強制してその道を行かせるような権力は、他のすべての人びとの自由や発展と相容れないばかりでなく、強者自身をも堕落させる。だが、単なる平均的人間の・W団の意見が至るところで支配的な力となってきているとき、この傾向に拮抗し、矯正することができるのは、思想的に卓越した人びとのますますはっきりと顕示された個性であろう。例外的な個人が大衆とは異なる行動をとった場合に、それを阻止せず、むしろ鼓舞しなければならないのは、とくにこのような状況の下においてである。他の時代においては、例外的な個人が大衆と異なる行動をとっても、それが大衆と異なるだけでなく、よりよい行動でない限り、何らの利点もなかった。だが、現代においては、単に大勢に順応しないという実例を示すだけでも、すなわち、慣習に膝を屈することを拒否するだけでも、それ自体一つの貢献なのである。世論の圧制がはなはだしく、普通でないことが非難されるくらいだから、それだからこそ、このような圧制を打ち破るためには、人びとが普通でないことがむしろ望ましいのである。力強い性格が豊富に存在していた時代と場所においては、奇矯な言動もつねに豊富に存在していた。そして一つの社会における奇矯な言動の豊富さは、一般にその社会の包含している天才、精神的活力、道徳的勇気の豊富さに比例していた。今やあえて奇矯であろうとする者がきわめて稀れであることは、現代の主たる危険を示すものである。
 以上に述べてきたことは、一般の慣習と異なる事柄の中で、どれが将来慣習に転化していくのに適当かが明らかになってくるためには、それら慣習と異なる事柄に対して、できる限り自由の余地を与えることが肝要である、ということであった。だが、独立の行動や慣習の無視が奨励に値するのは、よりよき行動様式や、一般に採用されるに足るよき慣習が見出される機会が、それによって与えられるということだけではない。また自分自身のやり方で生きていこうという当然の要求をもっているのは、卓越した精神の確固たる持ち主だけに限らない。すべての人間存在が、一つまたは少数の型にしたがって構成されなければならないという理由は、毫も存在しない。ともかくも並みの常識と経験をもっている人であれば、彼自身のやり方で自分の生活を設計するのが一番よいやり方なのだが、それは、その設計が本来最善のものであるからではなく、それが彼独自のやり方であるからである。人間存在は羊のようなものではない。いな、羊でさえ区別できないような一様なものではない。人間は、一着の上衣、一足の靴を求めるときでも、自分の寸法に合わせて作らせるか、倉庫全体・フ中から選び出さない限りは、自分の身に合うものを手に入れることはできない。一体生活を身に合わすことは、上衣を身に合わすことよりも容易だろうか?人間というものは、その全肉体的精神的構造は、足の形におけるよりも、相互に似ているものだろうか?人びとがただ趣味の点でさまざまに異なるだけだとしても、それだけでも、人びとを一つの型にはめようとしてはならない十分な理由である。人が異なるにしたがって、その精神的成長のために必要な条件もまた異なる。あらゆる種類の植物が同一の物理的環境と風土の中では健全な生存を保つことができないのと同様、人間も同一の精神的環境と風土の中では健全な生存を保つことはできない。ある人にとってはより高い人間性の啓発に役立つものが、他の人にとってはかえってその障害物となる。同じ生活様式が、ある人にとっては健全な刺激となり、活動力と享受力のすべてを最善の状態に維持するのに対して、他の人にとっては、それが心を乱す重荷となり、一切の内的生活を停止させたり、破壊したりする。快楽の源となるものにしても、苦痛に対する感受性にしても、さまざまな肉体的精神的動因の及ぼす影響にしても、人びとの間の相違はこのようにいちじるしいものがあるのだから、生活様式の中でも、これに対応するだけの相違がなければ、人びとは当然享受できる幸福も手に入れることができないし、その知的、道徳的、審美的能力を、その天分の可能な限りまで高めることもできない。そうであれば、公衆の寛容の心が向けられるのは、味方の多数をたのんで人びとに黙従を強いるような趣味や生活様式に限られるのは一体どうしてなのだろうか?一部の僧院を別とすれば、趣味の多様性がまったく認められていないところはどこにもない。人は、ボート、喫煙、音楽、スポーツ、チェス、トランプ、あるいは勉学を、好んでも好まなくても別に咎められることはない。それは、これらのもののどれかを好む人も、好まない人も、どちらも制しきれないほど多数だからである。だが、「誰もしないこと」をし、あるいは「誰もがすること」をしないという理由で咎められる男子は、まして女子は、あたかも彼または彼女が何か重大な道徳的犯罪をおかしたかのように酷評の的となる。世間の評判を落すことなしに自分の好むままにふるまうというぜいたくに多少ともふけることができるためには、何かの肩書をもっているか、あるいは自分が身分のあること、または身分のある人の恩顧を・セていることを示す何らの徴章をもっていなければならない。繰り返していうが、「多少ともふけることができるためには」である。およそいかなる人にせよ、そのようなことに大いにふける人物は、非難の言葉よりもいっそう悪いものを招く危険があるからである。すなわち精神鑑定の委員会にかけられ、財産をとりあげられて近親の人びとに分けられてしまうおそれがあるのである。
 現代における世論の傾向には、とくに、個性の顕著な表明に対して、ことさら不寛容であるという特徴がある。普通一般の人びとは、知性に関して平凡なだけでなく、好みに関しても平凡である。彼らは並み外れた行為に傾いていくほど強い好みや欲求をもっていない。したがって彼らは、このような好みや欲求をもっている人びとを理解できないし、このような人びとをすべて、彼らが平素軽蔑している粗野で放埓な人びとの同類と見なしてしまう。さて、一般的なこのような事実に加え、道徳の改善を目的とする強力な運動がすでに始まっているとしたら、われわれがいかなる結果を予期しなければならないかは明白である。今日このような運動は実際すでに開始されている。規律正しい行為を増大させ、行き過ぎた行為を阻止することができるというので、多くのことが実施された。また現在博愛の精神が広く普及しているが、この精神の発揮にとっては、同胞たちの道徳と思慮分別の改善ほど、うってつけの分野はない。以上のような現代の傾向が原因となって、行為の一般的規則を規定しようとする公衆の欲求と、あらゆる人びとを承認された基準に従わせようとする公衆の努力とは、過去のほとんどいかなる時代よりも強烈である。しかもその基準とは、明示されていることもあり、暗示されているだけのこともあるが、要するに何事も強く要求しない、ということである。それが理想的な性格とするところは、何ら顕著な性格をもたないこと、すなわち、人間性のうち、とくに際立っていて、その人物の輪郭を平凡な人びととはまったく異なったものとするような部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまうことである。
 理想は理想でも望ましいものの半分が除かれた理想にはつねに見られることだが、現代における賞賛の基準は、残り半分の低劣な模倣を生み出すにすぎない。生み出されるのは、強靭な理性の指導下にある非凡な精力や、良心的な意思の強力な統制下にある強烈な感情の代りに、意思や理性の力なしに、ただ規則に外面・Iに従うだけの脆弱な感情と貧弱な精力にすぎない。スケールの大きな精力的性格はすでに単に伝説的なものになってきている。今やわが国においては、実業界以外には精力のはけ口はほとんど存在していない。この方面に費される精力は今なお相当なものと思われる。残るわずかの精力はある種の道楽に費されている。それは、有用な道楽、いな、博愛的な道楽であることもあるが、要するに、つねにある一つの道楽であり、しかも一般に規模の小さなものである。今日イギリスの偉大さは、すべて集団的な偉大さである。われわれは個人的には弱小であり、ただわれわれの団結の習慣によって何事か大きなことをなしうるように見えるにすぎない。しかも、わが国の道徳的宗教的博愛主義者たちは、これで完全に満足している。だが、これまでのイギリスを築き上げてきた人びとは、これとは類を異にする人びとであった。イギリスの衰退を防ぐためには、このような類を異にする人びとが必要とされるだろう。
 慣習の圧制は、至るところで人間の進歩に対する不断の障害物となっている。それは、単なる慣習的なものよりもよりよきものを目指そうとする傾向、すなわち場合によってあるいは自由の精神とよばれ、あるいは進歩または改革の精神とよばれている傾向に対して絶えず敵対している。改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。改革の精神は、改革を望まない民衆に対してそれを強制しようとするかもしれないからである。したがって、自由の精神は、このような試みに反抗する限りでは、局地的に、あるいは一時的に改革の反対者と手を握ることもありうる。だが、唯一の確実で永続的な改革の源泉は自由である。自由によってこそ、個人が存在するところ、それと同じ数だけの独立した改革の中心が存在するからである。だが、進歩の原理は、自由への愛の形をとるにせよ、改革への愛の形をとるにせよ、つねに慣習の支配に反対するものであり、少くとも慣習の軛からの解放を含んでいる。そして進歩の原理と慣習との抗争は、人類の歴史を動かす主たる力となっているのである。世界の大部分は慣習の専制が完璧であるため、正確にいえば歴史をもっていないといってよい。東洋の全体がこのような状態にある。そこでは、慣習があらゆる事項について最後のよりどころとなっていて、正義と公正とは慣習との一致を意味している。権力に酔っている暴君を別とすれば、そこには慣習の主張することに反抗しようと思うようなものは一人・烽「ない。そしてその結果は、われわれの見ているとおりである。それらの国民もかつては独創性をもっていたに違いない。彼らは、最初から人口の稠密な、教育も普及し、多くの生活技術も発達していた国土から発足した、というわけではない。彼らは自分の力でこれらのすべてを作り出したのである。そして当時においては、世界最大のもっとも強力な国民であった。ところで、その彼らは今日ではどうなっているのか?彼らは今や他民族に支配され、隷属の身である。彼らの祖先がすでに壮大な宮殿と豪奢な寺院をもっていた時代に、現在彼らを支配している民族の祖先は、まだ森林の中をさまよっていた。だが慣習に全面的に支配されることなく、自由と進歩を享受していた。見たところ一つの民族は一定期間進歩し、やがて停止するようである。では、いつ停止するのか?それはその民族が個性をもたなくなったときである。だが、同じような変化がヨーロッパ国民に起るとしても、それは東洋におけるのとまったく同じ形ということではないだろう。ヨーロッパ国民を脅かしている慣習の圧制は、まったく変化を許さないということではない。それは特異なものを禁止するが、すべてのものがそろって変化する限り、変化そのものを阻むことはない。われわれは、われわれの祖先のおきまりの衣裳をすでに捨ててしまっている。誰も彼も依然として他の人と同様の服装をしなければならないが、その流行は一年に一、二回変るかもしれない。そこで留意を要するのは、そのような変化が起るとき、それはおそらく変化のための変化であって、美や便利についての観念の変化によるものではないということである。美や便利についての同一の観念が、同一の時期に世間のすべての人びとの注意をひき、他の時期にすべての人びとから同時に放棄されるということはありえないからである。だがわれわれは変化しうると同時に進歩的でもある。われわれは機械についてはたえず新たな発明をし、その発明がよりすぐれたものの発明によってとってかわられるまでは、それを維持している。われわれは政治においても、教育においても、さらに道徳においてさえ、改革を熱心に求めている。もっとも道徳に関しては、われわれのいう改革とは、主として、他の人びとを説得したり、強制したりして、他の人びとをわれわれ自身と同じように善良にするということである。われわれが反対するのは、進歩に対してではない。その逆で、われわれこそ今まででもっとも進歩・Iな人民だと自負している。われわれが戦っている相手は、個性である。われわれ自身をすべて一様な人間にすることができれば、われわれは、まるで奇蹟をなしとげたかのように思うだろう。自分のタイプの不完全さと他人のタイプの優れていることに注意を向けさせ、自他の長所を結びつけることによって両者のどちらよりも優れたタイプを生み出しうることに普通最初に気づかせてくれるのは、各人は互いに相違しているという事実なのだが、そのことを、われわれは忘れている。われわれにとってよい警告となる実例が中国である。彼らはまれな幸運によって初期のころからきわめてりっぱな一連の慣習を備えていたため、豊富な才幹と、いくつかの点では、叡知までももっていた。これらの慣習は、最高の教養あるヨーロッパ人からも一定の限定のもとに聖人や哲人の尊称で呼ばれるような人びとの労作ともいえるものであった。中国人はまた、彼らの有している最高の知恵を、できる限りその共同体の成員一人一人の心に銘記させ、そのような知恵をもっとも多く備えた人びとを高位高官の地位につかせるという卓越した機構をもっていた点でも注目に値する。このような事業をなしとげた人民は、たしかに人間進歩の秘訣を発見したのであり、したがって着実に世界の進運の先頭に立ちつづけていたはずである。ところが、その逆で、彼らは停滞し、幾千年もの間、その状態にとどまってきた。もしも彼らがさらに改善されるということになれば、その仕事は外国人の手によって果されるに違いない。彼らはイギリスの博愛主義者たちが熱心に励んでいる仕事において、すなわち、全国民をすべて一様の人間とし、すべての人が同一の訓言と規則によって自分の思想と行動を律するようにさせるという仕事において、イギリスの博愛主義者たちの希望をはるかに越えるほど成功したのであった。しかもその結果はわれわれの見るとおりである。現代の世論の支配体制は、中国の教育、政治制度の備えていた組織的な形態を、非組織的な形に改めたものである。したがって、個性がこの軛に抗して自己を主張することに成功しなければ、ヨーロッパはそのりっぱな祖先や、それがかかげるキリスト教信仰にもかかわらず、やがて第二の中国となっていくであろう。
 今日までヨーロッパをこのような運命から救ってきたものは何であろうか?ヨーロッパの諸国民を、人類の中の停滞的な部分ではなく、改革的な部分にしてきたものは何であろうか?それは・A彼らに何か卓越した長所が存在していたからではなく(存在しているとしても、それは原因としてではなく、結果として存在しているのである)、彼らが性格と教養について驚くべき多様性をもっていたからである。もろもろの個人、もろもろの階級、もろもろの国民は相互に極端なまでに異なっている。彼らは実にさまざまな行路を開拓し、それぞれの行路が価値あるものをもたらした。そして、どの時期においても、異なった行路をたどった人びとは互いに寛容な態度をとらずに、それぞれが、他のすべての人びとを自分と同じ道を行かせることができたらすばらしいことだと思っていただろう。だが、他人の発展を妨害しようとする彼らの試みは永続的な成功をおさめることはほとんどできなかった。そして各人は結局他人の提供してくれたよきものを我慢して受け入れた。ヨーロッパが進歩的で多面的な発展をなしえたのは、まったく右に述べたように行路が多岐であったおかげである、と思われる。だがヨーロッパがもっているこのような利点は、すでにかなり減りはじめている。ヨーロッパは明らかに、すべての人びとを一様なものにしようとする中国人の理想に向って進んでいる。ド・トクヴィル氏は彼の最後の重要な著作で、今日のフランス人が、一世代前のフランス人の場合と比べて、お互いどうしがどんなによく似ているかについて述べている。イギリス人については、同じことがいっそう強くいわれるだろう。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは先に引用した彼の論文の一節で、人類の進歩に必要な条件として――人びとを相互に異なったものにするために必要だからというので――二つのものをあげている。すなわち、自由と、状況の多様性である。これら二つの条件のうち後者は、わが国においては日々減少してきている。さまざまな階級や個人をかこんで、彼らの性格を形成してきた環境は、日ごとにますます同質化してきている。かつては、異なった身分、異なった地域、異なった職業の人びとは、別世界と呼んでもよいような環境の中に生きていたが、今日ではほとんど同一の世界に生きている。いわば、彼らは今や同じものを読み、同じものを聴き、同じものを見、同じところに行き、同じ対象に対して希望と恐怖をいだき、同じ権利と自由をもち、同じ手段で、それらの権利と自由を主張している。依然残っている地位の差異は大きいとはいえ、消滅したものに比べればいうに足りない。同質化は依然進んでいる。現代の政治的変・サのすべては、これを促進している。その変化がすべて、低いものを高め、高いものを低める傾向があるからである。教育が拡大されるごとに、同質化は促進される。教育は人びとを共通の感化力の下におき、彼らを事実と所感の共同の貯蔵庫に導き入れるからである。交通手段の改善が同質化を促進する。遠隔地の住民を親しく接触させ、一つの場所から他の場所への住居変更の早い流れを維持するからである。商業と製造業の増大が同質化を促進する。安楽な環境の利点をいっそう広範囲に普及させ、あらゆる野心の対象を、その最高のものまでも、一般の人びとの競争に開放し、それによって立身出世の欲望がもはや特定の階級の特性ではなく、すべての階級のものとなるからである。人類の間の全般的な類似性をもたらす上で、右にあげたすべてのもの以上に強力な力となっているのは、イギリスその他の自由諸国において国家における世論の優位が完全に確立されていることである。かつては高い社会的地位のおかげで大衆の意見を無視することができた人びとのその地位も、次第に下ってきている。また、公衆が何らかの意思をもっていることが明確になってきたときには、その意思に抵抗しようという考えそのものが、老練な政治家の念頭からますます消えてうせていく。そしてこれらの動きにともなって非同調的態度に対する社会的な支援――多数者の優位に反抗し、公衆の意見や傾向と異なる意見や傾向を保護していこうとする社会の強固な力――もまた存在しなくなっていく。
 以上のすべての原因が結合して個性反対の一大勢力を形成しているので、個性がいかにしてその地歩を固守することができるかは、容易ならぬ問題である。公衆の中の理知的な分子が個性の価値を感得しえない限り、すなわち、差異が存在することは――その差異がよい方向に向っていなくても、また差異のうちには、たとえ悪い方向に向っているように思われるものがあったとしても――有益であることを彼らが理解しえない限り、個性がその地歩を確保することはますます困難となるだろう。個性の権利が主張されなければならないとすれば、今こそその時期である。強制的な同質化を完全なものとするには、今まだ多くのものが欠けている。侵害に対して抵抗が成功するのは、初期の段階をおいてはない。他の一切の人びとを自分に似たものにしようという要求は、それが満たされれば満たされるほど大きくなる。人間の生活がただ一つの均一な型にほとんど化・オてしまうまで抵抗が延期されることになれば、この型から逸脱しているすべての言動は、不敬な、不道徳な、人間性に反した奇怪なものと考えられるようになるだろう。人間というものは、さまざまな相違をしばらくの間目にしなくなると、すぐにこのような相違を想像することさえできなくなるのである。
  第四章 個人に対する社会の権力の限界について
 それでは、自分自身を支配する個人の主権の正当な限界はどこにあるのか?社会の権力はどこから始まるのか?人間生活のうちどれだけの部分が個人の領域に入り、どれだけの部分が社会の領域に入るのか?
 社会と個人とが、それぞれ自分ととくに関係の深い部分のみをその領域に組み入れれば、各々は正当な持ち分を得ることとなるだろう。人間生活のうち、利害が主として個人に関係する部分は個人に属すべきであり、利害が主として社会に関係する部分は社会に属すべきである。
 社会は契約によってうちたてられたものではない。また、社会的な義務を引き出すための前提として契約なるものを案出したとしても、さして役に立つものではない。だが、いやしくも社会の保護を受けているものは、その恩恵に対して報いる義務があり、そもそも社会の中に生きているという事実そのものからして、各人は他のすべての人たちに対して一定の行為の軌道をどうしても守らなければならない。このような行為は、第一に、相互の利益――より正確にいえば、法律の明文または暗黙の了解によって権利と見なされなくてはならない一定の利益――を害しないことである。第二に、社会またはその成員を危害と干渉から守るための労働と犠牲について、各人がそれぞれ分担(一定の公平の原理に基づいて定められる)することである。これらの規定の履行をのがれようとする人びとに対しては、社会は何としてでもその履行を強制することができる。社会ができることは、これだけではない。ある個人の行為が、他人の有する法定の権利を侵害するところまではいかなくても、他の人びとにとって有害であり、あるいは他人の幸福に対する当然の配慮を欠いているという場合がある。このような場合は、反則者を法律によって処罰することは妥当でないとしても、世論によって罰することは妥当であろう。ある人の何らかの行為が他人の利益に有害な影響を及ぼすことになると、社会はこのような行為に対して裁判権をもつことになり、このような行為に干・ツすることによって一般の福祉が促進されるかどうかという問題が論議の対象となる。だが、ある人の行為が当人自身以外の誰の利益にも影響しない場合や、他の人びとがそれを望まない限り彼らの利益には何の影響も及ぼさなくてすむ場合(関係者はすべて成年で、普通程度の理解力をもっているものとして)は、このような問題を取りあげる余地はない。すべてこのような場合は、そのような行為をなし、その結果を引き受ける完全な自由――法律的社会的自由――が存在しなければならない。
 この主張を利己的な無関心の説であるとし、この説は、人間は生活の中で他人の行動とは互いに何のかかわりももたず、自分自身の利益に関係しない限り他人の繁栄や幸福にかかわるべきではないと主張するものだとするならば、それはこの説に対する大きな誤解であろう。他人の幸福を増進しようという私心のない努力は、これを減少すべきではなく、むしろ大いに増加する必要がある。だが私心のない善意は、人びとを説得して彼らの幸福に向かわせるためには、鞭や棒(文字どおりの、あるいは比喩としての)以外の、いろいろな手段を用いることができる。私は決して他人にはかかわりのない個人的な徳目を低く評価するものではない。それは二次的な重要性しかもたないとしても、ただ社会的な徳目に対して二次的であるのである。この二つの徳目を啓発することは、ひとしく教育の仕事である。だが教育でさえ、その働きは強制するだけではなく、説得し納得させることが必要なのであり、教育の時期が過ぎた後は、個人的な徳目を教え込むためには説得し納得させる以外にはない。人間はお互いの助力によってこそ、より善きものとより悪しきものとを区別することができ、お互いの激励によってこそ、より善きものを選んでより悪しきものを避けることができる。人間はいつもお互いに鞭達しあって、より高い能力を行使できるように、また、その感情や志向を愚かな目的や計画ではなく賢明なものに、下劣な目的や計画ではなく高尚なものに、ますます向けていくようにしなければならない。だが、どのような人であれ、またいかに多数の人であれ、成人である他人に向って、その当人が自分の生活について自分の利益のためにしようとしていることを、してはならないなどという権利はもっていない。その人の幸福について最大の関心をもっているのは当人自身である。強い個人的愛情で結ばれている場合は別として、他人がその人の幸福に対し・ト抱く関心は、その人自身が抱く関心に比べれば、取るに足りない。社会が一個人としての彼に対してもっている関心は(他の人びとに対する彼の行為については別だが)わずかなものであり、またまったく間接的なものである。一方、もっとも普通の男や女でも、当人自身の感情や境遇については、彼らがもっている理解の手段は、他の誰がもっているものよりもはるかにまさっている。その人だけに関係のある事項について、当人の判断や目的をくつがえそうとする社会の干渉は、必ず一般的な仮定を根拠としている。だが、このような仮定は、まったく間違っているかもしれないし、たとえ正しいとしても、個々の場合にそれを適用するに当っては、その場合の事情について単に外から傍観している者と同じ程度の知識しかもたない人によって誤って適用されるようなことになるだろう。したがって人間生活の中で、個性がその本来の活動領域をもっているのはこの分野である。人間相互間の行為については、各人が何を予期しなければならないかを知りうるために、一般的規則が大体において遵守されていなければならない。だが各人自身に関する事項については、当人の個人的自発性が自由に活動することができる。彼の判断を助けるためのさまざまな考慮や、彼の意思を強固にするためのさまざまな勧告が他の人から与えられるかもしれないし、ときには強要されることもあるだろう。だが最後の断を下すのは彼自身である。他人の注意と警告に背いたために犯すおそれのある過ちよりは、他人が当人の幸福と見なすものを当人に強いることを許す弊害の方がはるかに大きい。
 私は、他の人びとが当人を見る際の感情が、他人には関係のないその人物自身の資質や欠陥によって毫も左右されてはならないというのではない。このようなことは可能でもなければ望ましいことでもない。その人が自分自身の幸福に役立つようなすぐれた資質をもっていれば、その限りで、彼は当然賞賛の的になる。彼は人間性の理想的完成にそれだけ近づいているわけである。彼がそのような資質にいちじるしく欠けていれば、賞賛とは正反対の感情がともなうだろう。その当人に害を加えることは正当化できないが、その人物が当然嫌悪の的となり、極端な場合には軽蔑の的とさえなるような愚劣な言行なり、低劣な趣味や堕落した趣味(この用語には異議があるだろうが)といったものがある。これとは正反対の資質を十分具えている人であれば、このような人物に対・オて嫌悪と軽蔑の感情を抱かないわけにはいかない。誰に対しても不当なことは何もしていないが、われわれとしては、その当人を愚物あるいは劣等な人物と判断せざるをえないし、またそう感ぜざるをえないような行為が行われることがある。このような判断と感情は、本人も避けたいと思うことであるから、そのことを予め彼に警告することは、彼が直面している他の一切の不快な結果について警告するのと同様、彼に親切を尽くすことになる。このような親切が、今日礼儀についての世間の通念が許している程度よりもはるかに自由に与えられれば、そしてまた、他の人に対して、過っていると思われることを正直に指摘しても、無礼ともさしでがましいとも思われずにすむというのであれば、それは実に喜ぶべきことであろう。われわれは他の誰に対しても好意的でない意見を抱き、その意見に基づいてさまざまな仕方で行動する権利をもっているが、それはその他人の個性を圧迫するためではなく、われわれ自身の個性を活動させるためである。たとえば、われわれは彼との交際を求める義務はないし、それを避ける権利をもっている(避けるということをことさらいわなくても)。われわれは自分がもっとも気に入った交友を選ぶ権利をもっているからである。その人を見習ったり、その人と話し合ったりすることは、その人と交際する人びとに有害な影響を及ぼすおそれがあると思えば、われわれとしては、他の人に、警戒するよう注意してやる権利があるし、そうすることがわれわれの義務でもあるだろう。われわれは自分の自由選択にもとづいて親切を尽くすとき、それがその人の改善に役立つ場合以外は、他の人びとを先きにして、その人を後まわしにしてもかまわない。人間は、直接自分自身だけにしか関係のない欠点のために、以上のようなさまざまな形で他の人びとから極めて厳しい罰を加えられることがある。だが、このような罰を受けるのは、それが欠点そのものから生ずる自然的な、いわば自然発生的な結果である限りにおいてであって、懲罰のために故意に課されるからではない。無分別で頑固で自惚れの強い者――普通の生活費で生活できない者、有害な道楽をつつしむことのできない者、情感と知性の楽しみを犠牲にして動物的快楽を追求する者、――およそこのような人物は、人びとの評判を落すこと、人びとからはますますよく思われなくなることを覚悟しなければならない。だが彼にはそのことについて不満を洩らす権利は少・オもない。ただ人づきあいが極めてよく、人から好意をもたれていて、そのため、たとえ個人的な欠点があろうとも、それによって影響されることなく人の親切を受けることができる場合は別である。
 要するに、私の主張しようとするのは次のことである。すなわち、他人が抱く悪評にともなって当人にふりかかってくる迷惑があるが、それこそ、ある個人が、その行為と性格の中で自分自身の幸福には関係するが、他人の利益には何の影響もない部分によってこうむらなければならない唯一の迷惑なのだ、ということである。他人にとって有害な行為は、これとはまったく異なった取扱いが必要である。他人の権利を侵害すること、自分自身の権利によって正当化できない損失や損傷を他人に与えること、他人との交渉でうそをついたり二枚舌を使ったりすること、他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使すること、さらには、利己のために他人がこうむろうとする損害を防ごうとしないこと、すべてこれらの行為は、当然道徳的非難を受けるべきものであり、重大な場合には道徳的報復や刑罰を受けるべきものである。これらの行為のみでなく、その原因となった性向もまた正に不道徳なものであり、当然非難の的となるべきだし、この非難がさらに憎悪の念をよび起すこともあるだろう。残忍な気質、悪意と邪険、すべての激情の中でもっとも反社会的で、もっとも忌まわしい感情である嫉妬、虚偽と不実、十分な理由もなしに怒り易いこと、挑発に対して不釣合いな憤激、他人を支配することを好む心、自己の分け前以上の利益を奪い取ろうとする貪欲、他人をおとしめることに満足感を覚える高慢、自分と自分の関心事を他のどのようなものよりも重要視し、一切の疑問を自分の都合のよいように決定する自己中心癖、これらはすべて道徳的欠陥であって、不良で忌まわしい道徳的性格を構成している。先に述べた、他人にはかかわりのない個人的な欠点は、これとは異なっていて、それは本来の不道徳ではなく、いかにはなはだしくとも邪悪とはならない。それらの欠点は、何らかの程度の愚劣さ、あるいは人格的威厳と自尊心の欠如のあらわれであるかもしれない。だが、それは他の人びと――その人びとのためにその個人が自らを大切にしなければならない人びと――に対する義務に違反する場合にのみ道徳的非難の対象になるにすぎない。いわゆる自分に対する義務とよばれるものは、事情によってそれが同時に他人に対する義務とな・轤ネい限りは、社会的に義務的なものとはならない。自分に対する義務という言葉は、それが単なる分別以上のものを意味する場合は、自尊または自己啓発を意味しているが、自尊や自己啓発は、そのいずれについても同胞たちに対して責任を負うことはない。そのいずれについても同胞たちに対して責を負わされないことこそ人類にとって利益だからである。
 その当人が思慮分別や人格的威厳を欠いているために当然招くことになる他人の軽侮と、他人の権利を侵害したために当然彼に加えられる非難との間の区別は、単に名前だけの区別にすぎないものではない。彼がわれわれを不快にしているのは、彼を抑える権利がわれわれにあると思われる事柄についてなのか、それとも、そのような権利はわれわれにはないことがわかっている事柄についてなのかということは、それによって彼に対するわれわれの感情にも、また行動にも、いちじるしい差異が生じてくる。彼がわれわれを不快にすれば、われわれは嫌悪の情を示してもよいし、自分を不快にする物から遠ざかるのと同じように、そのような人間から遠ざかることもできる。だが、われわれに求められているのは、彼の生活を不快にすることだ、などと思ってはならない。われわれは、彼が自分の過ちに対する十分な罰をすでに受けていること、あるいはやがて受けるだろうということを考えなければならない。たとえ彼がへたなやり方のためにその生活を駄目にしているとしても、われわれはそれを理由として、いっそう彼の生活を駄目にしようなどと思ってはならない。われわれは彼を罰しようなどと思うかわりに、むしろ彼の行状がもたらすおそれのあるいろいろな害悪をいかにして回避し、いかにして矯正することができるかを彼に示して、彼がこうむる罰の軽減に努めるべきであろう。彼は、われわれにとって憐れみの対象、おそらくは嫌悪の対象であるかもしれない。だが、怒りや恨みの対象ではないだろう。われわれは彼を社会の敵であるかのように扱ってはならない。彼のことに口を出すにしても、彼のことを考え、心配し、好意をもってするのでなければ、われわれとしてしてもよいと思われるのは、せいぜいのところ、彼を好きなようにさせておくことである。だが、彼が彼の同胞を、個人にせよ集団にせよ、保護するために必要な規則を犯したとすれば、事情はまったく別である。この場合は、彼の行為のもたらす悪い結果は、彼自身にふりかかってくるのではなく、他人の上に・モりかかってくるのである。したがって社会は、そのすべての成員の保護者として、彼に報復を加えなければならない。すなわちはっきりと処罰のために苦痛を課し、しかもその苦痛が十分に厳しいようにしなければならない。この場合は、彼はわれわれの法廷における犯罪者であって、われわれは彼に対して判決を下さなければならないだけでなく、何らかの形でその判決を執行しなければならない。これに対して前の場合は、彼に対して苦痛を与えることは、どのようなものにしろ、われわれのするべきことではない。ただ、われわれが自分自身のことを処理する際に、われわれが彼に対して認めているのと同じ自由をわれわれが行使したことによって、たまたま彼の身に生じた苦痛だけは止むをえない。
 ここに指摘したように、一個人の生活の中で彼自身のみに関係のある部分と、他人にも関係のある部分とを区別することは、多くの人びとがこれを認めることを拒むだろう。そして次のように問うだろう、いやしくも社会の一員であるものの行動が、どのような部分にせよ、他の成員にとってどうして無関係でありえようか、と。誰でもまったく孤立した存在ではない。ある人が自分自身に対して重大な、あるいは永続的な害のあることを行えば、その害は必ず少くとも近親の人びとに、たいていはそれ以上に及ばずにはいない。彼が自分の財産に損害を与えれば、その財産によって直接間接に扶養されてきた人びとに損害を与えるわけであり、また普通は多かれ少なかれ、共同体の一般的資源を減少させることにもなる。彼が肉体的精神的能力を低下させれば、多少とも彼に依存して幸福を維持しているすべての人びとに対して損害をもたらすだけでなく、同胞たち一般に対して尽くさなければならない奉仕もなおざりになり、おそらくは、同胞たちの愛情や慈悲心にすがる厄介者となるであろう。さらに、このような行為が頻繁に行われることになれば、全社会の幸福の総量を減殺することにおいては、どのような犯罪をも凌駕するだろう。ある人がその悪徳や愚行によって他人に対して直接害を与えることがない場合でも、彼はやはりこのような実例を示すことによって害悪を流すことになるといえるだろう。したがって彼の行為を見たり知ったりすることで堕落したり迷わされたりするおそれのある人びとのために、当人の自制を強いるのは当然だろう。
 さらにつけ加えて次のようにもいわれるだろう。たとえ不行跡の結果を引き受けなけ・黷ホならないのは、身持ちの悪い、無思慮な当の本人だけだとしても、明らかに正しく身を処することのできないこれらの人びとを、社会は勝手にさせておかなければならないものだろうか?小児と未成年者については、自ら身をあやまることのないように彼らを保護することが当然のことだとすれば、社会は、自制の能力をもたない点では彼らと同様の成年者たちに対しても、同様の保護を与えるべきではなかろうか?賭博、酩酊、放埓、怠惰、不潔などが、法律で禁止されている行為の大多数と同様、幸福を損ない、進歩を大きく妨げることになるとすれば、実行可能で社会の便益と衝突しない限りは、法律によってこれらのものをも抑制するべきではなかろうか?避け難い法律の不備を補足するため、世論は少くともこれらの悪徳を防圧するための有力な警察力を組織し、これらの悪徳を行っていることが明らかな人びとに対して峻厳な社会的刑罰をもって望むべきではなかろうか?ここには、個性を制限するとか、生活に関する斬新な独創的な試みを阻害するなどというような問題はまったく起らないだろう。ここで防止の対象となっているのは、世界創造の初めから今日まで実際に行われ、非難されてきたものばかりである。すなわち、いかなる個性にとっても有用でもなく適切でもないことが経験から判明したもののみである。これまでに、かなりの年月を経、かなりの経験が蓄積されてきたに相違ないのだから、そこには一つの道徳上の、あるいは処世上の真理が確立されていると見なしてもよいだろう。ここで要望されているのは、ただ、来るべき幾世代もの人びとが、先人を破滅させたのと同じ断崖から次ぎ次ぎと転落することのないようにしたいということだけである。
 ある人が自分自身に加える害は、同情や利害関係を通じて、近縁の人びとに重大な影響を及ぼすだろうし、また程度は少ないにせよ、社会全般にも影響を及ぼすことがあるのは、私も十分認めるところである。ある人がこの種の行為によって他の人たちに対する明白な一定の義務に違反することになれば、それは当人だけにかかわる個人的な行為の枠を越え、本来の意味における道徳的非難を受けなければならないものとなる。たとえば、ある人が放縦や浪費のため負債を弁済することができなくなるとか、家族に対する道義的責任があるにもかかわらず、同じ原因のため家族を扶養したり教育したりすることができなくなれば、彼が非難されるのは当然であり、処罰される・フも当然だろう。だが、それは彼の家族や債権者に対する義務を怠ったためであり、浪費そのもののためではない。彼らに提供されなければならないはずの資産が彼らに向けられず、極めて慎重な投資に向けられたとしても、道徳的罪悪であることにおいては同じであろう。ジョージ・バーンウェルは情人のために金を得ようとして叔父を殺したが、商売で身を立てるために叔父を殺したとしても、同じように絞首刑に処せられたであろう。また、悪習にふけって家族を嘆かせるという、しばしば見られる事例においても、その不人情や忘恩のゆえに非難されるのは当然である。だが、その習慣自体としては悪習とはいえないものであっても、彼と生活を共にする人びと、あるいは個人的なつながりから彼に頼って安楽な生活を送っている人びとに対して苦痛を与えるものであれば、そのような習慣を培ったことについて、同じく非難されることになるだろう。何びとにせよ、他人の利益と感情に対して当然払わなければならない考慮を欠くならば、しかもそれが何か他のいっそう重要な義務のためでもなく、また、どうしても先に考えなければならない自分のことがあったためでもないということであれば、彼はこのような考慮を欠いたことについて道徳的非難の対象となる。だが、それは、このような道徳的非難の対象となった行為を生んだ原因のためではないし、またその遠因となったと思われる彼の個人的な過ちのためでもない。同様に、ある人が自分自身だけにかかわる行為によって、公衆のために負担しなければならない明確な義務を果すことができなくなれば、社会的な犯罪を犯すことになる。何びとも単に酩酊しているからというので処罰されるべきではない。だが、兵士や警官は勤務中に酩酊していれば、処罰されなければならない。要するに、個人に対する、あるいは公衆に対する明確な損害、もしくは明確な損害の危険が存在する場合には、問題は自由の領域から外されて、道徳や法律の領域に移されるのである。
 だが、ある個人が、公衆に対する明確な義務に違反することなく、また自分以外の特定の個人に対して明白な損害を与えることもない行為によって、社会に単に偶然的な損害、あるいは推定的ともいうべき損害を及ぼすような場合には、社会はこの迷惑を、人間の自由といういっそう重大な利益のために耐え忍ばなければならない。一人前の大人が適切に自分の身を処することができないという理由で処罰されるとしたら、その・・アは、彼らが自分の財力を損うのを防ぐためであるとか、それを取り立てる権利があるとは社会自身も主張しないような利益を社会にもたらすためであるとか、という口実で行われるよりも、彼ら自身のためということで行われる方がよいだろう。だが私は、この問題を論議するに当って、社会の愚かな成員たちを教育して理性的行為の普通の水準にまで高めるためには、彼らが無分別な行為を行うのを待ってこの行為を理由として法律上あるいは道徳上の罰を加える以外には方法がないかのように論ずることには賛成できない。社会は、その人たちの生涯の初期全体を通じて彼らを支配する絶対的権力をもっていた。すなわち社会は、彼らの幼年および未成年の時期全体を掌握していたのであり、この時期に人生において理性的に行動する能力を彼らに身につけさせることができるかどうかを試してみることができたはずなのである。現在の世代は、次の世代の訓練とすべての環境の双方を支配する主人である。もちろん現在の世代は、次の世代の人びとを完全に賢明にしたり善良にしたりすることはできない。現在の世代それ自身が嘆かわしいほど善良さにも賢明さにも欠けているからである。また現在の世代が最善の努力を尽くしたとしても、個々の場合においては必ずしも最善の成果をおさめることができるとは限らない。だが、現在の世代は、次の世代を全体として自分たちと同程度か、もしくはそれよりも少しは優れたものにする能力は十分にもっている。社会がその成員の相当数を、直接身近な動機によってしか行動できない単なる子供に作りあげてしまうことになれば、社会はその結果に対して自ら責めを負わなければならない。社会は、教育に関するすべての権力を掌握しているばかりでなく、自ら判断する能力の極めて乏しい人びとに対して、既成の世論の権威がつねに発揮するあの支配力をも備えている。さらには、彼らを知る人びとから嫌悪や軽蔑をこうむる当のこの人たちの上にどうしても落ちてこざるをえない自然的な刑罰をも利用することができる。したがって社会は、これら以上に、個々人の私事についてまで命令を発し服従を強いる権力を必要とする、などと主張すべきではない。個々人の私事については、正義と政策に関するあらゆる原理に照らして、決定はその結果を甘受しなければならない個人自身に委ねなければならない。また、個人の行為に影響を与えようとするよい手段も、これを不適当な人に適用すれば、これほどこの・闥iに対して不信の念を抱かせたり挫折させたりすることはない。思慮分別や節制を強制しようとしても、その当人の中に、強健な不羈独立の性格を形成する素質が少しでも存在すれば、彼らは間違いなくその軛に反抗するだろう。彼らは、彼らが他人の利害を侵害するようなことがあれば、当の他人がそれを排除する権利は認めるが、他人が彼らの利害に口出しする権利は決して認めないだろう。したがって、このような外からの強権的な圧力に対して真向から抗争し、これ見よがしにそれの命ずるところと正反対の行為を行うことが、気概と勇気のしるしであると考えられるようになる。チャールズ二世の時代に清教徒の狂信的な道徳的不寛容につづいて起った野卑な風習などはその一例である。不行跡なものや放縦なものが他人に示す悪い模範に対して社会を防衛する必要がある、ということに関していえば、悪い模範が有害な影響を及ぼすこと、とくに他人に悪いことをしながら、それが罰を免れるという実例が有害な影響を及ぼすことは、たしかにそのとおりである。だが、われわれがここで問題としている行為は、他人に対しては何も悪いことはせず、ただ行為者本人に対してのみ重大な害悪を及ぼすと考えられる行為である。このことを承知している人びとが、どうして右のような実例は、総じて、有害であるよりもむしろ有益であるに違いないとは考えないのか、私にはわからない。右のような実例は、不行跡を人びとに示すものだとしても、同時にまた、苦しみ多い結果や不名誉な結果をも示すものであり、しかもそのような結果は、不行跡に対して正当な非難がなされる限り、ほとんどの場合、必ずついてまわることになっているからである。
 だが、純粋に個人的な行為には、世間は干渉してはならないとする一切の論拠の中でもっとも強力なものは、世間が干渉を行う場合には、それが不当かつ不適切に行われるおそれがあるということである。社会道徳の問題や他人に対する義務の問題については、世間の意見、すなわち支配的な多数者の意見は、間違っている場合もしばしばあるとはいえ、正しい場合の方が、おそらくいっそう多いだろう。このような問題については、世間は単に彼ら自身の利害について、すなわち、ある行為の実行を認める場合、それが彼ら自身にどのような仕方で影響を及ぼすかについて判断を下せばよいからである。だが、当人のみにかかわる個人的な行為の問題について、多数者の意見が法律として少数者にお・オつけられる場合は、それが正当であることもあるが、間違っていることもしばしばある。このような場合世論とは、せいぜいのところ、他の人びとにとって何が善であり、何が悪なのかについての一部の人びとの意見を意味しているにすぎないし、それだけのことを意味しない場合も非常に多いからである。世間は彼らの非難するような行為をする人びとの喜びや便益に対しては、まったく関心を抱かず、これを無視し、彼ら自身が好むところだけを考慮する。世の中には自分が嫌悪する行為を自分に対する侮辱のように考え、自分の感情を傷つける暴行であるかのように憤る人が多い。たとえばある偏狭な宗教信者は、他の人びとの宗教的感情を無視すると非難されたとき、むしろ彼らの方があの厭わしい礼拝や信条を固執して私の感情を無視していると応酬したということである。ある人が自分自身の意見に対して抱く感情と、彼がその意見をもっていることに不快感を抱く他の人の感情とは、ちょうど財布を盗もうとする盗賊の望みと、財布を守ろうとする正当な所有者の思いとのように、まったく折り合うことはできない。そしてある人の好みというものは、その人の意見や財布と同様、彼自身の特別な関心事なのである。一切の不確実な事柄については、個人に干渉せずにその自由と選択にまかせ、ただ普遍的経験によって非とされているような行為だけを慎むように求める、というような理想的な世間を誰もが空想するだろう。だが、その検閲権にこのような制限を設けた世間が、どこに存在しただろうか?また世間が普遍的経験のことをわざわざ考えるというようなことは、果していつのことだろうか?世間は個人の行為に干渉するに当っては、世間と異なった行為や感情を大悪としか考えない。そしてこのような判断の基準が多少の粉飾をほどこされて、道徳家、思想家の九割までの人びとによって宗教や哲学の命ずるところとして人びとに提示されている。この人たちの教えるところによれば、物事は正しいから正しいのであり、それはわれわれがそれを正しいと感じるからだ、というのである。またこの人たちが説くところによれば、われわれ自身や他のすべての人びとを拘束する行為のおきては、われわれ自身の頭と心の中にさがし求めなければならない、というのである。だとすれば、あわれな公衆としてはこれらの教えを適用して、善と悪とに関する彼ら自身の個人的感情を、それが彼らの間である程度一致している限り、全世界の人びとの規・ヘとせざるをえないではないか。
 ここに指摘した害悪は、ただ理論の上で存在しているだけのものではないし、現代のわが国の公衆が自分の好みに不当にも道徳的なおきての性格を付与している実例を明示することが期待されるかもしれない。この論文は、現在の異常な道徳感情をテーマにしたものではない。その問題は非常に重大で、ついでに論じたり、例証として論じたりするには、あまりにも重大すぎる問題である。とはいえ、私の主張している原理が容易ならぬ実際的な重要性をもっていること、また、私は決して想像上の害悪に対して防塞を築こうと努めているわけではないことを明らかにするためには、やはり実例が必要である。それに、道徳警察とでもよぶべきものの領域が拡大されていって、ついには疑う余地のない個人の合法的自由をも侵害するに至るということが、人間のあらゆる性癖の中でももっとも普遍的なものの一つであることを、豊富な実例によって明らかにすることは難しいことではない。
 まず最初の例として、自分と宗教的意見を異にしている人びとが、自分の遵守している宗教的儀式や、とくに宗教的禁忌を遵守しないという、単にそれだけの理由で人びとが抱く反感について考えてみよう。どちらかといえば些末な実例をあげれば、キリスト教徒の信条や行動の中で豚肉を食うという事実以上に、彼らに対するマホメット教徒の憎悪をかきたてるものはない。一方キリスト教徒やヨーロッパ人の場合は、豚肉を食うというこの食欲の満たし方に対してマホメット教徒が抱く嫌悪のような心底からの嫌悪感を抱く行為はほとんどない。豚肉を食うことは、第一にマホメット教徒の宗教に対する違反である。だが、そのことは、この行為に対する彼らの嫌悪の程度についても、またその質についても何の説明も与えてくれない。ワインもまた彼らの宗教では禁じられており、ワインを飲むことはすべてのマホメット教徒から悪いこととされてはいるが、嫌悪すべきものとまでは考えられていないからである。これに反して「不浄な獣」の肉に対する彼らの嫌忌は特殊な性質を帯びていて、本能的な反感に似ている。不浄の観念が一度感情に深く浸みこんでしまうと、細心な奇麗好きとは決していえないような習慣の人びとにもこの本能的反感をつねに起させるらしい。ヒンズー教徒にとくに強烈な宗教的不浄感は、この本能的反感の顕著な一例である。さて、マホメット教徒が大多数を占めているある国民の中で、この大・ス数者のマホメット教徒が、その国の領土内では豚肉を食うことを許さないと主張する場合を想像してみよう。こういうことは、マホメット教国では少しも珍しいことではないだろう。だが、それは果して世論の道徳的権力の正当な行使といえるだろうか?いえないとすれば、なぜなのか?このような世間にとっては、豚肉を食うという習慣は本当に嫌悪をもよおさせるものなのである。彼らはまた、それは神が禁止し嫌悪するものだと真面目に考えているのである。また、この禁制は宗教的迫害だと非難することもできないだろう。この禁制は、その起源は宗教的だったかもしれないが、宗教を理由とする迫害とはいえないだろう。いかなる人の宗教も豚肉を食うことを義務とはしていないからである。この禁制を不可とする唯一の筋のとおった根拠は、個人の私的な好みや、他人にはかかわりのない個人的な事柄に対しては、世間は干渉すべきでない、ということであろう。
 いま少しわれわれに近いところに例を求めれば、スペイン人の大多数は、ローマ・カトリック教会以外の形式で神を礼拝することは神に対するはなはだしい不敬であり、この上もなく非礼なものだと考えている。スペインの国土では、他のすべての礼拝形式は合法的ではない。南ヨーロッパ中の人びとは、結婚している僧侶を反宗教的と見なすばかりか、多情で、みだらで野卑な嫌悪すべき存在と見なすのである。彼らのこのような心底からの感情や、彼らがそれをカトリック教徒以外の人びとにも強制しようとすることに対して、新教徒たちはどのように考えるであろうか?人びとが他人の利害には関係のない事柄についてお互いの自由に干渉することが認められるとすれば、この場合は別だというならば、それはどのような道徳律にもとづいてなのだろうか?あるいはまた、その人びとからすれば、神と人との目の前で犯される醜行と見なされるものを、彼らが抑圧しようとするからといって、誰がそれを非難することができようか?個人的な不道徳と考えられる行為の禁止を擁護する議論としては、前述のような行為を神に対する不敬と見なす人びとの見方に立って、それらの行為の抑圧を主張する議論以上に強力な議論はない。われわれとしては、迫害者の論理を採用することは望まないし、また、われわれは正しい故に他の人びとを迫害してもよいが、他の人びとは誤っている故にわれわれを迫害してはならない、などと主張することも望むものではないだろう。そうであれば・Aわれわれ自身に対して適用される場合には、はなはだしい不公正として憤慨するような原理を容認することのないように注意しなければならない。
 以上の実例に対してはわが国ではありえないことから引いてきた例だとして、反対――筋のとおったものとはいえないにしても――が出るかもしれない。なるほどわが国では、世論が肉類の禁断を強制したり、人びとがその信条や性向にしたがって礼拝することに対して、また結婚したり、しなかったりすることに対して、干渉を加えたりするようなことは起りそうもない。だが、われわれは自由に対する干渉の危険からは決して脱却してはいない。次にその実例をとり上げてみよう。ニューイングランドや共和制時代のイギリスのように、清教徒が強力なところでは、彼らはつねに一切の公的娯楽とほとんどの私的娯楽を禁圧しようとした。そしてかなりの成功をおさめた。とくに音楽、舞踏、公開競技会その他の娯楽集会、演劇が対象となった。今日でもなお、わが国には、これらのレクリェーションを非とする道徳観念や宗教観念をもった人びとが大勢存在している。これらの人びとは主として中流階級に属していて、しかもこの中流階級はわが国の現在の社会的政治的状態のもとではますます優勢となってきており、このような心情の人びとが将来いつの日か、議会の過半数を制することも決してありえないことではない。人民の中の残りの人びとは、当然彼らに許されるべき娯楽が峻厳なカルヴィン教徒やメソディスト教徒の宗教的道徳的感情によって統制されることをどうして歓迎することができよう。彼らはこれらのでしゃばりの信心家に対して相当断固とした態度で、人のことにかまうなと要求しないであろうか?これは、自分たちが不正と見なしている娯楽を誰も楽しんではならないと主張するすべての政府と世間に対して、正にいってやらなければならないことである。だが、右のような主張がよりどころとしている原理が容認されれば、その原理がその国の多数者や有勢な勢力の意見にしたがって実行されることに対して、誰も理をわけて反駁することができなくなるだろう。そして、凋落しつつあると思われた宗教がしばしばその実例を示しているように、ニューイングランドの初期の開拓者の宗教的信仰に似た信仰が、いつの日か、その失った地盤を回復することに成功すれば、すべての人びとは彼ら開拓者たちの抱いていたようなキリスト教共和国の観念に順応していく覚悟でいなくて・ヘならないだろう。
 さらに、今述べたことよりも起る可能性のより高い事例を考えてみることにしよう。近代の世界においては、民主的な政治制度をともなう、ともなわないにかかわらず、民主的社会組織に向かおうとする強力な傾向がはっきりと存在している。この傾向がもっとも完全に実現されている国――社会も政府もともにもっとも民主的な国、すなわちアメリカ合衆国――では、大多数の人びとは、彼らがとうてい足もとにもよれないと思われるような華美豪奢な生活に対して不快感を抱いているといわれている。多数者のこの感情がかなり効果的な奢侈制限法として作用し、多くの地方では、巨額の所得をえている人が民衆の非難を招かないように金を使いたいと思っても、それは実際に難しい、とのことである。このようないい方は、現在の事実のえがき方としては疑いもなく誇張されたものだろう。だが、そこに記述されているような事態は、世間は個人の所得の支出方法に対して拒否権をもっているという考えが、民主的感情と結合した場合に生じる結果、それも想像できる結果、ありうる結果であるばかりか実にありがちな結果なのである。これに関しては、さらに、社会主義的意見が相当広く普及した場合を想像してみさえすればよいだろう。その場合には、一定の極めて僅少な額以上の財産をもつことや、肉体労働によらない所得をもつことは、多数者の目から見れば、破廉恥なこととなるだろう。これと大体同じような意見が、すでに職工階級の間に広く普及していて、この階級の主たる意見に従順でなければならない人びと、すなわちこの階級自体の成員である人びとを重苦しく圧迫している。周知のように、多くの工業部門で労働者の大多数を形成している不熟練労働者たちは、次のような断固たる意見をもっている。すなわち、不熟練労働者は熟練労働者と同一の賃金を受け取るべきだというのであり、出来高払いなどの方法のもとで、優秀な技能や勤勉を利用して、他の労働者がそれなしにかせぐ所得よりも多額の所得をかせぎ出すようなことは何びとについても認められるべきではない、というのである。彼らは、熟練労働者がより有用な労働によってより大きな報酬を受け取ろうとしたり、雇い主がそのような報酬を与えようとしたりするのを阻止するため、精神的な警察力を行使する。この警察力は時には物理的な警察力ともなる。世間が私的な事柄に対して何らかの司法権をもっているとすれば、これらの不熟練労働者・ェ間違っているとはいえないだろう。また、ある個人の所属している私的な団体が、一般世間が人民一般に対して主張するのと同一の権力をその個人の私的行為に対して主張するとしても、それを咎めることはできないだろう。
 だが、想像上の事例を長々と論ずるまでもなく、われわれ自身の生きている現在、私生活の自由に対するはなはだしい侵犯は現実に行われているし、さらにはなはだしい侵犯が加えられるおそれが十分考えられるのである。それに、世間について無制限の権利を主張する意見も提起されている。すなわち、世間は、世間が悪と見なす一切の行為を法律によって禁止するだけでなく、世間が悪と見なす行為を禁ずるためには、無害と認められる多くの事柄をも禁止できる、というのである。
 不節制を防止するという名目のもとに、イギリスのある植民地の人民と、アメリカ合衆国の約半分の住民が薬用に供する場合を除いて、醗酵飲料の使用を法律によって禁止されている。これらの飲料の販売の禁止は、事実上、それが意図しているとおり、これらの飲料の使用の禁止であるからである。この法律の実施は実際は不可能なために、それを採用したいくつかの州ではこの法律は撤廃された。その中にはこの法律の名前の由来となった州も含まれていた。それにもかかわらず、これと同様の法律をわが国でも制定しようという運動がすでに開始されていて、多数の自称博愛家たちが躍起となってそれに取り組んでいる。そしてこの目的のために組織された協会、すなわち自ら「同盟」と称している団体はかなり評判になっている。それは、イギリスの公人のうち、政治家の意見は原理に基づくべきものであると考えている極めて少数の人びとの一人であるスタンリー卿と、この団体の幹事である人物との間の書簡が公表されたためである。スタンリー卿の公的な言動の中にはっきりと示されているような資質は、政治生活の中で頭角をあらわしている人びとの間では遺憾ながら極めて稀れであることを知っている人びとは、早くから卿に希望を託していた。スタンリー卿の書簡は、この希望をいっそう強化するものと思われる。「偏執と迫害を正当化するために悪用されるような原理が承認されることを深く遺憾としている」この同盟の幹事は、そのような原理と同盟の原理との間には「幅広い越え難い障壁」が横たわっていると指摘している。そしていう、「思想、意見、良心に関するすべての事項は立法の範囲外にあると思われる・B一方社会的な行為、習慣、関係に関するすべての事項は、国家に与えられているが、個人には与えられていない裁量権にのみ服すべきものであり、したがって立法の範囲内にあると考えられる」と。ここでは、これら二種類の事項のいずれにも属さない第三の種類のもの、すなわち、社会的ではない、個人的な行為や習慣については、何も言及されていない。しかも酒類を飲むという行為はこの第三の種類に属している。たしかに酒類の販売は商売であり、商業は一つの社会的行為である。だが、われわれが不可としている自由の侵害は、販売者の自由に関するものではなく、購買者、消費者の自由に関するものである。国家が意図的に酒の入手を不可能にすることは、まさしく飲酒を禁止することに等しいからである。だが右の同盟幹事はいう、「私は一市民として、私の社会的権利が他人の社会的行為によって侵害される場合について法的に禁止する権利を要求する」と。そこで、この「社会的権利」なるものの定義を聞くこととしよう。曰く、「およそ私の社会的権利を侵害するものがあるとすれば、酒類の販売こそまさにそれである。酒類の販売は絶えず社会の混乱をひき起したり助長したりして、私の基本権である安全の権利を破滅させる。酒類の販売は、私が納税によって扶助しなければならない貧困者を生み出すことによって利潤を得、それによって私のもつ平等の権利を侵害する。またそれは、私の行路をさまざまな危険でかこみ、私としては当然相互扶助と交際を求める権利のある社会を虚弱にしたり頽廃させたりして、道徳的発展と知的発展の自由に対する私の権利を侵害する」と。「社会的権利」に関するこのような説が明確な言葉となってあらわれたことは、おそらく前代未聞であろう。これはまさしく次のようにいうことにほかならない。すなわち、他のすべての人びとに、あらゆる点について彼らのなすべきことを厳密に履行させることが、すべての個人の絶対的な社会的権利である、また、もっとも些末な事柄においてさえなすべきことをなさなかった者は私の社会的権利を侵害するものであり、したがって私はこの不満を取り除くことを立法府に対して要求することができる、と。このような奇怪な原理は、個々のどのような自由侵犯よりもはるかに危険である。およそどのような自由の侵害でも、この原理によって正当化できないものはない。これは、おそらくひそかに意見を抱いて、それを決して口外しないという自由のほかには、・「かなる自由に対しても権利を認めないものである。私が有害と考える意見が誰かの口から出たとたん、それは、右の同盟が私のものだとするすべての「社会的権利」を侵害することになるからである。この説によれば、すべての人間は、相互に相手の道徳的、知的、さらには肉体的完成に対して干渉する既得権をもっていて、しかもこの完成の定義は、各既得権者自身の基準によることになっている。
 個人の正当な自由に対する侵害のもう一つの重要な例で、単にそのおそれがあるというだけでなく、久しい以前から堂々と実行されてきているものに、安息日厳守の立法がある。生活のさし迫った必要がない限り、一週間に一日日常の仕事を休むということは、ユダヤ人以外の人にとっては決して宗教的義務ではないが、疑いもなく極めて有益な慣習ではある。だが、この慣習は、勤労階級がすべてこの趣旨に同意しない限り遵守されない。したがって一部の人びとが休日に労働することによって他の人びとにも労働を余儀なくさせるかもしれないという事情がある限りは、法律によって特定の日の比較的重要な産業活動を停止させ、各人のために他の人びとの公休日の遵守を保証することは、許されることであり、また正当だろう。だが、この法律による規制が正当とされるのは、各人がその慣習を遵守するかどうかは、他の人びとの動きに直接左右されるからであり、したがって、ある個人が自分の閑暇を利用するのに適当と考えて自分で選んだ仕事については、この規制は及ばないし、法律で公休日の娯楽を制限することも、まったく正当とはいえない。たしかにある人が娯楽を楽しむことは、他の人にとってはその日の労働となる。だが、その職業が自由に選択され、また自由にやめることができる限りは、多数の人びとに、たとえ有益なものでなくても、楽しみを提供することは、少数の人びとがそのために労働するに値することである。一方すべての人びとが日曜日に働くならば、六日分の賃金に対して七日分の労働を提供しなくてはならないだろう、と働く人たちが考えるのはまったく正しい。だが、大多数の仕事が休止している限りは、他人の享楽のためにその休止の日にも働かなければならない少数の人は、それに比例したより大きな所得を得る。しかも彼らは、報酬よりも閑暇を選ぶなら、このような仕事に従事する義務は負っていない。なお休日に働くこのような人たちのために、より以上の補償が必要ということであれば、別の日にその・lたちのために休日を設けるというような慣習を確立することも考えられるだろう。したがって、日曜日の娯楽に対する制限を弁護する唯一の根拠は、おそらくは日曜日の娯楽が宗教的罪悪だということなのである。だが、これは立法の動機としては、いかに真剣に抗議してもし足りないほど不合理なものである。「神に対する罪は神がこれを裁き給う」。全能者に対する罪とされているものであっても、われわれの同胞に対する罪とはいえない行為に対して、社会やその役員たちがそれに報復すべき使命を天から与えられているということは、証明ずみのことではない。他人を宗教的にしてやることが人間の義務であるという考えは、過去に犯されたすべての宗教的迫害の根拠であった。このような考えが容認されれば、宗教的迫害は完全に正当化されるだろう。日曜日の鉄道旅行を止めさせようとする度重なる試みや、日曜日の博物館開館に対する反対運動などにあらわれている感情には、古い迫害者たちの残酷さはないが、このような感情が示している精神状態は、根本的に迫害者のそれと同じものである。迫害者は、他人がその人たちの宗教の認めていることを行なおうとするのに対して、それが迫害者たちの宗教では許されていないというので、その他人の行為を抑えようとする。それは、神は異端者の行為を嫌悪するだけでなく、われわれが異端者をそのままに放置しておくならば、われわれ自身も罪ある者と見なされる、という考えである。
 人間の自由が一般にいかに軽視されているかについて以上のとおり実例をあげて述べてきたが、私としてはここでさらにもう一つの例をつけ加えずにはおれない。それは、わが国の新聞がモルモン教という特異な現象に注目しなければならないと感じるたびにつねに爆発させているあの露骨な迫害の言葉である。新しい啓示なるものと、それを基礎とする一つの宗教――開祖の非凡な資質による信望という支柱さえももっていない、この明白な欺瞞の産物――が、幾十万の人びとに信仰され、新聞と鉄道と電信の時代に一つの社会の基礎となっているという、人びとの予想しなかった教訓的なこの事実に関しては、多くの語るべきことがあるだろう。ここでわれわれに関係があるのは、この宗教が他のより優れた宗教と同様に殉教者をもっている、ということである。すなわち、この宗教の予言者であり、開祖であった人物は、その教えのために暴徒によって殺され、一部の信徒たちも同様の不法な暴力によっ・ト生命を失い、さらに信徒たちは一同そろって彼らが育った土地から強制的に放逐されたのである。ところが、彼らがすでに砂漠の中の遠隔の僻地に追いこまれてしまっている今日になって、わが国の多くの人びとは、彼らに対して遠征隊を派遣し、力によって他の人びとの意見に従うようにさせることが妥当であろう(厄介でさえなければ)と公然と宣言している。モルモン教の教義の中で、とくにこのように宗教的寛容の通常の自制の枠を突破してしまうような反感を挑発する主な要因となっているのは、一夫多妻を認めている条項である。一夫多妻は、マホメット教徒にもヒンズー教徒にも、中国人にも許されてはいるが、英語を語り、キリスト教徒の一派であることを名乗る人びとが実行する場合は、制しがたい憎悪を喚起するように思われる。モルモン教のこの制度を非とする点では、私は人後におちるものではない。それには、いくつかの理由があるが、とくにそれが自由の原理によって容認されるどころか、自由の原理を直接に侵犯するものだからである。すなわち、この制度は共同社会の半分である女性を鎖に釘付けにする一方、他の半分である男性を前者に対する相互的な義務から免れさせるものである。だが、それについて想い起さなければならないのは、この関係が、その当事者であり、またその受難者であると思われる女性たちの側の自発的な意思にもとづいていること、その点では他のいかなる結婚制度とも同じであるということである。そして、この事実がいかに驚くべきものだと思われるにしても、それは世間一般の観念と慣習によって説明できるのである。この世間一般の観念と慣習によって、女性たちは結婚を唯一つの必要事と考えるように教えこまれているので、多くの女性は独身でいるよりは、むしろ数人の妻の中の一人となる方を選ぶのももっともなことなのである。他の諸国はこのような夫婦関係を承認するよう要求されているわけではないし、その国民の一部がモルモン教の見解を信じているからといって、彼らを自国の法律の適用から除外するよう求められているわけでもない。だが、これら世間一般と見解を異にしている人たちは、他の人びとの敵意に対して相手方の当然の要求以上に、はるかに多くのものを譲歩している。彼らは彼らの教義が受け入れられなかった国々を去って地球上の僻遠の一隅に落ちつき、その土地を初めて人間の住める土地にした。そのようなとき、彼らが他国民を侵略することもなく、彼らの・酪Kに不満な人びとに対しては完全な退去の自由を許しているとすれば、その彼らに自分たちの欲する法律のもとでそこに暮らすことを許さないなどというのは、圧制の原理以外のいかなる原理にもとづいているのか、理解に苦しむところである。ある点では注目される最近の著述家の一人は、彼からすれば文明の退歩と思われるものを絶滅するため、この一夫多妻の共同体に対して(彼自身の言葉を用いれば)十字軍ならぬ文明軍を送ることを提案している。一夫多妻は私にも文明の退歩と思われる。だが、どのような共同体であろうと、他の共同体に対して文明を強制する権利をもっているとは思われない。悪い法律に苦しんでいる人びとが他の共同体の助力を要請した場合は別だが、そうでない限り、当事者のすべてが満足しているように見える事態が、数千マイルの外にある局外者にとって憤激の種だというので、これらまったく関係のない人びとがそこにふみこんでその廃棄を要求するなどとは、とうてい承認できないことである。彼らがそうしたければ、その制度に反対する説教をさせるために、宣教師を派遣すればよいだろう。また何らかの正当な方法で(モルモン教の伝道者を沈黙させることは正当な方法ではない)、モルモン教のような教義が自国民の間に普及することを阻止したらよいだろう。野蛮が全世界を支配していたときに文明は野蛮に打ち勝ったのだとしたら、野蛮がすでに十分征服された後において、それが復活して文明を征服しはしないか心配だなどというのは、行きすぎというものである。自分が一旦征服した敵に負けるような文明は、まず第一に、すでにはなはだしく頽廃していて、僧侶や教師も、また他のいかなる人物も、たとえ指名されてもこのような文明を擁護するために立ち上る能力もなければ、その労をとろうとする意思もなくなっているに違いない。だとすれば、そのような文明は退去命令を受けることが早ければ早いほど、結構なことである。このような文明はますます悪化していき、ついには精力旺盛な野蛮人たちによって(西ローマ帝国のように)亡ぼされ、そしてまた再生させられる他はないのである。
  第五章 適用
 以上の諸章で主張された諸原理は、さらに広く細目にわたっての議論のよりどころとして認められなければならない。そうして初めて政治と道徳のさまざまな部門のすべてに、これらの原理が一貫して適用できるようになり、効果も期待できるだろう。以・コ私が行おうとする細目にわたる問題についての二、三の考察は、これらの原理を追及してその帰結を確かめるよりも、むしろこれらの原理を例証しようとするものである。私は適用の実例を示すというよりは、むしろ適用の見本を示そうとした。それは二つの原則――本書の説くところはこの二つの原則から構成されている――の意味と限界をいっそう明らかにするのに役立つだろうし、また、二つの原則のどちらを適用すべきかはっきりしない場合に、決定を下す際の判断の助けとなるだろう。
 二つの原則の第一は、個人は、彼の行為が彼自身以外の何びとの利害とも無関係である限り、社会に対して責任は負わない、ということである。この場合は、他人が自分たちの利益のために必要と考えて行う忠告、教示、説得、忌避が、社会がその個人の行為に対する嫌悪や非難を表明する唯一の正当な手段である。原則の第二は、他人の利益を害する行為については行為者個人に責任があり、社会がその防衛のために社会的罰則または法律的罰則を加える必要があると考える場合には、行為者個人はそのいずれかに服さなければならない、ということである。
 まず第一に、他人の利益に損害を与えるときや、もしくは損害を与えるおそれがあるときにのみ、社会の干渉が正当化されるからといって、そのような場合、社会の干渉はつねに正当化されると考えてはならない。正当な目的を追求する場合必然的に、したがって合法的に、他人に苦痛や損失を与えたり、他人が当然得たいと望んでいる利益を途中で奪い取るようなことが往往にしてある。このような個人間の利害の対立は、しばしば悪い社会制度から生じるが、このような制度が存続している限り、それは避けることができない。なかには、どのような制度の下でも避けることができない利害の対立もある。同業者が氾濫している職業に成功する者、競争試験に勝を制する者、二人の人間が共に望んでいる目的物をめぐってのコンテストで相手を抜いて選ばれる者、これらの人たちが利益を手にするとき、それには必ず他人の損失、他人の努力の空費、他人の失望がともなってくる。だが人びとがこのような結果にひるむことなく自分の目的を追求することは、一般に認められているとおり、人類全体の利益にとって望ましいことなのである。換言すれば、社会は失意の競争者に対して、この種の苦悩を免れることのできる法律上もしくは道徳上の権利を絶対に認めない。社会としては、それを許・キことは、社会全体の利益に反するような成功の手段、すなわち詐欺、違約、暴力のような手段が用いられたときにのみ、干渉するよう求められているものと思うのである。
 商業は一つの社会的行為である。どのような種類の品物にせよ、それを一般の人びとに販売する人は誰でも、他の人びとや社会一般の利益に影響のある行為を行なうことになる。したがって彼の行為は、原則として社会の司法権の管轄下に入ることとなる。それゆえ、かつては重要と思われる一切の事物について、価格を決定し、製造過程を規制することは、政府の義務と考えられていた。だが、長期にわたる闘争の後に初めて認められたことだが、今では商品の価格の低廉と品質の良好とは、買手における調達先選定の完全な自由を唯一つの歯止めとして、生産者並びに販売者を完全に自由にしておくことによって、もっとも効果的に達成されるものとされている。これはいわゆる自由交易論であって、本書に主張されている個人的自由の原理と同様、確固とした、ただしそれとは異なった論拠の上に立つものである。商業や商品生産に対する制限は、いうまでもなく束縛である。そして、すべての束縛は、束縛としては一つの悪である。だが、ここで問題とされている束縛は、社会が束縛する権限をもっている行為を対象とするものであり、それがよくないとされるのは、それが意図した成果を生み出さないからである。自由交易の理論には個人の自由の原理は含まれていない。したがって個人の自由の原理は、自由交易の理論の限界に関して生じる問題の多くとは関係がない。たとえば、粗悪品による詐欺を防止するためには、どの程度の社会的統制が許されるのか、とか、危険な職業に雇傭されている労働者を保護するための衛生上の予防策または設備は、どの程度まで雇主に強制されなければならないか、というような問題である。これらの問題は、人びとを自由に放任することは、他の事情が同じであれば、人びとを統制するよりもつねに利益が大きい、という限りでのみ、自由に関する考慮を含んでいるにすぎない。だが、先述のような目的のために人びとを統制することが正当であるのは、原則として否定できない。他方、商業に対する干渉に関する問題の中には、本質的に自由の問題であるものがある。たとえば、すでに言及した酒類の販売を制限するメイン法や、中国への阿片の輸入禁止や、毒薬販売の制限など、要するに干渉の目的が特定の商品の入手を不可能または・「難にすることにあるすべての場合がそれである。これらの干渉は、生産者や販売者の自由に対する侵害としてではなく、購買者の自由に対する侵害として反対されるべきものである。
 右にあげた実例の一つである毒薬の販売は、新しい一つの問題を提起する。すなわち、警察の職能とされるものの適当な限界はどこか、犯罪や災害を予防するために自由を侵害することは、どの程度まで正当か、という問題である。犯罪がなされる前にこれを予防することは、犯罪がなされた後にこれを捜査し処罰することと同様、争う余地のない政府の職能の一つである。だが政府の予防的な職能は、事後の処罰の職能に比較して、濫用され、自由を侵害する危険がはるかに大きい。人間の正当な自由な行動のどの部分をとってみても、それが何らかの形の犯罪の促進につながっているといえないものはないし、また、そのようにいわれるのが当然だからである。だが、官憲が、いや一私人でも、誰かが明らかに犯罪を犯そうとしているのを見れば、彼らはその犯罪が遂行されるまで手を束ねて見ていなければならないわけではなく、犯罪を防ぐために当然干渉してもよい。毒薬の購入や使用が殺人のためだけであれば、毒薬の製造や販売を禁止することは正当であろう。だが毒薬は無害な目的ばかりでなく、有益な目的のためにも求められるのであって、悪い目的のための購入や使用に制限を加えることは、よい目的のための購入や使用に対しても影響を及ぼさずにはいない。それに災害を防止することは官憲の正当な職務である。危険であるとわかっている橋を誰かが渡ろうとするのを官吏などが見つけ、しかもその人に危険を知らせる余裕がない場合、その人をつかまえて引き戻したとしても、決してその人の自由に対する侵害とはならないだろう。自由とは自分が望むところをなすことにあるのであって、その人は川に墜落することは望んでいないからである。だが災害の発生が確実なわけではなく、そのおそれがあるだけの場合には、あえてその危険をおかすだけの動機があるか否かを判断できるものは、当人以外にはない。したがってこの場合には(彼が小児であるか、狂乱状態にあるか、反省能力を十分に活用できないような興奮状態や忘我状態にあるのでない限り)当人に対しては危険を警告するにとどめるべきであり、当人が自分を危険にさらそうとするのを無理に阻止すべきではないだろう。同様の考慮を毒薬の販売のような問題に適用すれば、取締りのい・・「ろな方法の中で、どのようなものが自由の原理に反するか、反しないかを決定することができるだろう。たとえば、薬品の危険な性質を表示する注意書を貼付するというような予防法は、これを強制しても自由の侵害とはならないだろう。購買者は、彼の所持する薬品が有毒であることを知りたくないはずはないからである。だが、あらゆる場合に医師の証明書を要求することは、正当な用途のためにその薬品を入手することを時として不可能にし、またつねにその薬品を高価なものとするだろう。毒薬による犯罪を阻止すると同時に、他の目的のためにその毒薬を求めている人びとの自由に対しては問題とするに足るほどの侵害を加えることにはならない唯一つの方法は、私の見るところでは、ベンサムが「予定的証拠」という適切な用語で呼んだものを用意することにあると思われる。この方法は、契約の場合に誰にもおなじみのことである。契約を結ぶ場合、法律が、その契約の履行を確実にするための条件として、署名や、立会人の証言や、その他所定の手続きの遵守を命じることは、つねに行われることであり、また当を得たことである。それは後に異議が生じた場合に、その契約が実際に締結されたこと、その契約を法律上無効にするような事情は何も存在しなかったことを立証するための証拠を残しておくためである。その効果は、虚偽の契約や、暴露された場合にはその契約が無効になってしまうような事情の下での契約の締結をあらかじめ阻止することにある。犯罪の手段に使われるような物品の販売については、これと同じ性質の予防策を強制してもよいだろう。たとえば、販売者に命じて、売買の正確な時刻、購買者の姓名と住所、売られた商品の正確な質と量を登録させ、また購買目的を質問させて、その答えを記録させることにしてもよいだろう。処方箋を持参していない購買者に対しては、後日その物品が犯罪目的に使用されたと信じられる理由が生じた場合に、購買者に購入の事実を承服させるため、第三者の立会を必要条件としてもよいだろう。このような規制は、そのような物品の入手に対して一般には何ら重大な障害にはならないだろうが、隠れてそれを悪用しようとすることに対しては非常に大きな障害となるだろう。
 事前の予防策によって自らに対する犯罪を防止することは社会に固有の権利である。このことからすれば、他人にかかわりのない純粋に個人的な非行に対して予防または刑罰という方式をもって干渉す・驍アとは正当ではないという原則についても、明らかな限界があるということがいえるだろう。たとえば酩酊は、普通の場合は法律をもって干渉すべき事柄ではない。だが、酒に酔って他人に暴行を加えたということで有罪の宣告を受けたことのある人物が個人的に特別な法律的制限の下におかれることは、完全に正当であると思われる。また彼が後日再び酩酊しているところを発見されれば、当然刑罰に処せられるべきであるし、酩酊しているときに再び犯罪を犯せば、その再犯に対して課される刑罰はいっそう厳しいものがあって然るべきだと思われる。酩酊すれば興奮して他人に害を加える人にあっては、酩酊することは他人に対する犯罪である。同様に、怠惰を法律上の刑罰の対象とすることは、公的扶助を受けている人びとや、怠惰が契約の違反になる場合の外は、圧制以外の何ものでもない。だが、ある人が怠惰やその他の回避可能な原因によって、自分の子供の扶養というような、他の人間に対する法律上の義務を履行しない場合には、他に適当な方法がない限り、強制労働を課すということで義務の履行をせまることは、決して圧制ではない。
 さらにまた、直接には行為者自身にとってのみ有害であり、したがって法律によって禁止すべきではないが、それが公然と行われれば善良の風俗を害し、他人に対する犯罪の範疇に属することになるため、当然これを禁止することができるという行為が多数存在している。風紀を乱す罪はこの種のものだが、これについては詳論の必要はない。この種の行為は、われわれの主題とは単に間接的な関係しかないから、なおさらそうである。なお本来非難されるべきでない行為、また非難されるべきものと考えられてもいない行為でも、公然とこれを行うことには同様に強い反対が出るという例は少くない。
 これまで述べられてきた原理と矛盾しない解答を与えなければならないなお一つの問題がある。非難に値すると思われる個人的行為ではあるが、その直接の結果である害悪はすべて当人のみにふりかかってくるため、自由の尊重という点から社会がそれを禁止したり処罰したりはしない場合、行為者の自由にまかされているこのような行為について、他人がこれを勧めたり煽動したりすることも同様に自由であるべきなのだろうか?この問題はたしかに難しい点がある。ある行為を他人に勧めることは、厳密には他人にはかかわりのない個人的な行為ではない。他人に忠告したり勧誘したりする・s為は社会的行為である。したがって他人に影響を与える一般の行為と同様、社会の統制に服すべきものと考えられるかもしれない。だが少し考えれば、このような場合は、厳密には個人的自由の定義の枠内には入らないが、個人的自由の原理の基礎となる理由は、このような場合にもあてはまることが明らかになり、前述のような最初の印象は訂正される。自分自身だけにかかわる一切の事柄については、人びとは自分の危険負担で、自分にとって最善と思われるように行動することが許されなければならないのだとすれば、どうすればそうなるのかについて互いに相談すること、意見を交換し示唆を与えあうこともまた同様に自由でなければならない。どのような行為にせよ、それをなすことが許されている行為は、それをなせと忠告することもまた許されていなければならない。ただ疑問があるのは、教唆者がその助言によって個人的利益を得る場合、すなわち、彼が生活のため、または金銭的利得のために、社会や国家が悪と見なしている行為の促進を自分の職業としている場合である。この場合には、たしかに問題を複雑にする新たな要素が加わってくる。すなわち、その人たちの利害が公共の福利と考えられるものと相反し、このような福利を阻害することによってその人たちの生活がなりたっている、そのような人びとの存在である。このような生活の仕方は社会の干渉を受けるべきものなのかどうか?たとえば、私通は大目に見なければならないし、賭博も同様である。だが、売春斡旋業や賭博場経営は自由にまかしておいてよいものかどうか?このような場合は、まさしく二つの原則の境界線上にある場合の一つであって、二つの原則のいずれに属すべきものかは、一見して明瞭であるとはいえない。双方の側にそれぞれいい分がある。自由にまかそうとする側では、次のようにいうだろう。すなわち、職業としてある行為をなし、それによって生計を立て、利潤を得ているからといって、そうでなければ許されるはずの行為がそのために犯罪になるということはありえない、その行為は一貫して許されるか、または一貫して禁止されなくてはならない、われわれがこれまで擁護してきた原理が真実であるとすれば、社会としては、個人にのみかかわることを悪いと決定する権利はもっておらず、諫止以上に進むことはできない、甲が諌止の自由をもつならば、同様に乙は勧誘の自由をもたなければならない、と。これに対する反対論としては、次のよう・ノ主張されるだろう。すなわち、当人の利益にのみ影響を及ぼすあれこれの行為の善悪について抑制や処罰の目的のために権威をもって決定する権利は、世間や国家にはないが、彼らが悪いと見なす行為の場合は、少くともその行為の善悪は議論のある問題であると考えられて当然であろう、このように考えるならば、とうてい公平無私ではありえない教唆者の、利欲のからんだ勧誘の影響を国家や世間が排除しようと努めることは、決して誤った行動とはいえないだろう、しかもこれらの教唆者は一方の側、すなわち国家が悪いと信じている方の側に直接の個人的利益を有していて、公然と自分の個人的目的のためにその利益を促進しようとしているのである、と。また次のようにも主張されるだろう。すなわち、私利のために他人の好みを煽りたてる者の手に人びとができるだけ乗らないようにし、賢明であるにせよ愚かであるにせよ、自分が望むところにしたがって選択を行えるようにしたとしても、社会はたしかにそれによって何ものも失わず、いかなる福利をも犠牲にするはずはない、と。そして次のようにもいわれるだろう。すなわち、賭けごとを違法としてこれを規制する法規は弁護の余地はまったくないが――すべての人びとは、自宅や相手の家で、あるいは彼ら自身の出資によって作られ、会員とその客に対してのみ入場を認めている集会所で賭博することは自由でなければならないが――公開の賭博場は許可してはならない、と。たしかに、この禁止は決して十分な効果を発揮しないだろうし、警察にどれほど強大な権力が与えられても、賭博場はつねに違った仮装の下に維持されるだろう。だが、このような規制の下では、それらの賭博場は一定の秘密の隠れた運営を余儀なくされ、賭博場をとくに求めている人びと以外は、賭博場のことについて知る人は誰もいなくなるだろう、それ以上のことは、社会としては求めてはならないのである、と。以上の議論には相当説得力がある。だが、正犯が自由に放任されているときに(また放任されなければならないときに)、従犯を処罰する、たとえば、姦淫の媒介者を科料や禁固に処しながら、姦淫者を処罰しない、賭博場の経営者を処罰しながら、賭博者を処罰しない。このような道徳的変則について右の議論が果してこれを正当化するに足るかどうか、あえて断定するまでもないだろう。まして普通の売買取引に対して、同じような論拠に基づいて干渉することについては、なおさら正当化できない・セろう。売買の対象となっているほとんどの物品は、過度に使用消費される可能性のあるものである。したがって販売者はこのような過度の使用を勧めることによって金銭的利益が得られる。だが、このことを根拠として、たとえばメイン法の擁護論をうち立てようとしても、それは不可能である。酒類の販売業者は酒類の濫用を有利とはするものの、酒類の適正な使用のためにはなくてはならない人びとであるからである。だが、これらの商人が過度の飲酒を奨励することによって利益を得るのは本当は邪悪なことであり、国家がこれに対して規制を加え、保証を要求することは正当である。ただし、右の理由を欠いている場合は、それは正当な自由に対する侵害となるだろう。
 さらに問題となるのは、国家は、行為者の最善の利益に反すると考えられる行為を一方では許しておきながら、間接的にこれを思いとどまらせるようにすべきかどうかという問題である。たとえば、国家は酩酊の手段である酒類をいっそう高価にするような方策を講じたり、販売所の数を制限することによってその入手をいっそう困難にしたりすべきかどうかという問題である。この問題については、他のたいていの実際問題におけると同様に、いろいろな場合を区別して考えなければならない。酒類の入手をいっそう困難にすることを唯一の目的として酒類に課税することは、酒類の完全な禁止とは、手段としてはただ程度が違うだけのことで、完全な禁止が正当である場合にのみ正当とされるだろう。価格の騰貴は、その資力が騰貴した価格に追いつけない人びとにとっては、一つの禁止令に他ならないし、一方騰貴した価格を支払うことができる人びとにとっては、特定の嗜好の満足に対して課せられる罰金に他ならない。国家と他の人びととに対する法律的道徳的義務を果した後は、どのような快楽を選び、どのような所得の使い方をするかは、各人の個人的問題であり、各人自身の判断にまかされなければならない。このような考えからすれば、財政収入のための課税対象に酒類を選ぶことは、一見不当と思えるかもしれない。だが、忘れてならないのは、財政目的のための課税は絶対避けられないこと、大多数の国では、課税の相当部分が間接税であるべきだとされていること、したがって国家は、ある人びとにとっては消費の禁止に等しいものになろうと、若干の消費財の利用に対して罰金を課せざるをえないことである。そこで、租税を課するに当って、消費者にとっ・トそれなしでもすませる代表的なものは何かを考えることが国家の義務となる。さらにそれにもまして国家の義務となるのは、いささかでも適量を超えて使用すれば、確実に人を害すると思われる物品に対して優先的に課税することである。したがって、酒類に対して、もっとも多額の国家収入をもたらすところまで課税することは(国家がこの課税のもたらす収入全部を必要としていると仮定して)、許されるだけでなく、賛同されるべきことなのである。
 酒類の販売を多かれ少なかれ独占的な特権とすべきものかどうかの問題は、このような制限の意図するところがどのような目的にあるのかにしたがって、答えが異なってこなければならない。公衆の出入りする場所はすべて警察の規制を必要とするが、ここで問題としている酒場のような場所はとくにそうである。社会に対する犯罪はとくにこのような場所で起りやすいからである。したがって、酒類の販売(少くともその場所ですぐに消費するための)権を、品行方正をもって聞こえた人びと、あるいは保証つきの品行方正な人びとに限ること、その営業を世間の監視下におくために必要な開店閉店の時刻に関する規則を設けること、店主の黙認や無能力によって公安の妨害が繰返し発生した場合、あるいはその店が法律侵犯の計画や準備のための集合場所となった場合には、その営業許可を取り消すこと、これらはいずれも適当な処置である。だが、これ以上の制限は原則として正当化できるとは思われない。たとえば、ビールや火酒類の販売店の利用を困難にし、誘惑の機会を減少させるため、これらの販売店の数を制限することは、このような施設を乱用する一部の者の存在を理由として、すべての人びとに不便を強いるだけではない。それは、労働者階級が公然と小児か野蛮人のように扱われ、将来自由の特権を許されるようになるまで自由を束縛した教育の下におかれているというような社会状態にのみふさわしいことである。どのような自由国家においても、労働者階級が公然とこのような原理のもとに統治されているところはない。彼らに自由を教育し、彼らを自由人として統治するためのあらゆる努力が尽くされた後でなければ、そして彼らが結局小児として統治されるほかないことがはっきりと証明された後でなければ、自由の価値を正しく評価している者は誰でも、労働者階級がこのように統治されることに同意しないだろう。このように、彼らが小児として扱われるほかないことが・リ明されなければならないと述べただけで、ここで考察する必要のあるどのような場合においても、そのような証明のための努力がすでに払われてきたなどと想像することがまったくばかげたことだということがはっきりとわかる。専制政治あるいは、いわゆる父権政治に属するものがわれわれの慣習の中に混入してきているのは、ひとえにわが国の制度が矛盾したものの集まりであるからであり、一方、わが国の制度に普遍的な自由のせいで、道徳教育としての実効をあげようとして規制を加えようとしても、それに必要な統制力の行使ができなくなっているのである。
 本書の初めの方で指摘しておいたように、当人のみに関係する事柄についての個人の自由には、複数の個人の間でのこれに対応する自由、すなわち、彼らのすべてに関係するが、彼ら以外の人には関係のない事柄について相互の了解によって規制を加える自由が含まれる。この問題は、当事者すべての意思が変更されない限りは、何の困難も生じない。だが、当事者の意思は変るものだから、彼らだけに関係のある事柄についても、お互いの間で契約を結ぶことがしばしば必要となる。そして一旦契約を結んだ以上は、一般原則として、当然その契約は守られなければならない。だが、おそらくあらゆる国の法律には、この一般原則に対する若干の例外がある。人は第三者の権利を侵害するような契約には拘束されないというだけではなく、時としては、契約者自身にとって有害であるということが、その契約を解除するのに十分な理由とされる場合がある。たとえば、わが国や他の大多数の文明国においては、自分を奴隷として売ったり、自分が奴隷として売られることを認めたりするような契約はまったく無効であり、法律によっても世論によっても履行を強いられることはない。自分の生涯の運命を隋意に処理する権利をこのように制限する理由は明白であり、それはこの極端な例において極めて明瞭に示されている。他人の利益のためでない限り、人びとの自発的な行為に干渉しないという理由は、その行為者の自由を顧慮するためである。彼の自発的な選択は、そのようにして選ばれたものは彼にとって望ましいものであるか、少なくとも彼にとって我慢のできるものであることの証拠である。彼の幸福は、彼に彼独自の方法でその幸福を追求させることによって、概してもっともよく達成される。だが自分を奴隷として売る場合には、自分の自由を放棄することになる。その一回の・s為の後は、将来永久に自分の自由を活用することができなくなる。したがって、自分を処分したのは自分が自由でありたいがためであるのに、その当の目的である自由を自分で破棄したことになる。彼はもはや自由ではない。以後彼は、普通自発的にそこにとどまっている場合に認められる有利な推定――自由の存在――がもはやなりたたない境遇におかれていることになる。自由の原理は自由を捨てることの自由を要求することはできない。自由の譲渡の自由は許されない。自由を尊重しなければならないこれらの理由――その力はこの自分を奴隷として売るという特殊な例においてとくに顕著であるが――は、明らかによりいっそう広範囲に適用されるものである。だが、それらはやむをえない人生の必要によって、至るところで制限を受けている。人生はわれわれに、自由を放棄せよとはもちろん要求しないが、自由に対するあれこれの制限を受け入れるよう、たえず要求している。だが、一方、当人のみに関係する一切の事柄については無制限な行為の自由がなければならないという原理からすれば、契約によって互いに結びつけられた人びとは、第三者には関係のない事柄についてはお互いに合意によってその契約を解除することができなければならない。またこのような合意による解除が行われない場合でも、金銭や金銭的価値に関する契約以外は、おそらく絶対に取り消しの自由を与えてはならないと断言できるような契約や約定は存在しないだろう。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトはさきに引用した優れた論文の中で、彼が確信するところだとして次のように述べている。すなわち、個人的な関係や奉仕に関する契約には一定期間以上に法律的拘束力をもたせるべきではない、またこの種の契約の中でもっとも重要な結婚は、双方の感情が結婚と調和しない限り、目的は達成されなくなるという特殊性をもっているから、その解消には、いずれか一方の側の意思表示のみで足りることにしておくべきであると。この問題は極めて重要かつ複雑であり、ついでに論じることのできるような問題ではない。そこで私は、説明のために必要な限りでのみこの問題に触れることにする。フンボルトの論文は簡潔で概論的なものであるため、彼としては、この場合、その前提を論ずることなしに結論を述べることで満足せざるをえなかったのだろうが、そうだとしても、ここにあげたような単純な根拠だけでは、この問題を決定できないことは、彼はもちろん十・ェ承知していたことであろう。明白な契約または行為によってその人の一定の行為の継続を他人があてにするようになった場合には――他人に期待と予測を抱かせ、他人が生涯の計画の一部をその期待と予測に賭けるようになった場合には――その人としては、その他人に対して負担しなければならない一連の新たな道徳的義務が発生してくる。これらの義務はおさえつけてしまうことは可能であっても、無視するわけにはいかない。さらにまた、契約の両当事者の間の関係が他の人びとの上にも影響を及ぼした場合には、すなわち、それが第三者をある特定の立場においた場合、あるいはとくに結婚の場合のように、第三の関係者を生み出すに至った場合には、契約の両当事者は、ともにこのような第三者に対して義務を負わざるをえなくなり、このような義務の履行、少くとも履行の仕方は、契約の当事者の間の関係が継続するか崩壊するかによって当然大きな影響を受けることになる。だからといって、契約当事者はこれらの義務を果すため、その意に反し、自らの幸福を犠牲にしてまでも、最初の契約を履行しなければならないということではないし、私もそのようなことを認めることはできない。だが、これらの義務は、この問題における不可避の要素である。そして、たとえ、これらの義務が、フンボルトの主張しているように、当事者の契約解除の法律的自由に対しては当然何の影響も及ぼすべきではないとしても(私もまた大きな影響をもたらすべきではないと考える)、道徳的自由に対しては、必然的に大きな影響を与えることになる。人は、このように重大な他人の利益に影響するおそれのある措置を決意するに先立って、これらの事情のすべてを考慮に入れなければならない。彼がこのような他人の利益に対して然るべき考慮を払わなければ、彼はその他人の受ける損害に対して道徳的な責任を負わなければならない。私が以上のような自明ともいうべきことを述べたのは、自由の一般的原理をいっそうわかりやすく説明するためであり、普通は、一般的原理とは反対にあたかも子供という第三者の利益がすべてであって、当事者である大人の利益は無であるかのように論じられている結婚という特殊の問題が、とくにこのような説明を必要としているからではない。
 すでに述べたように、広く認められた一般的な原則というものがないため、本来自由が認められなければならないのにそれが否定されるばかりか、本来自由が否定されるべき・ネのにそれが許されている場合がしばしば見られる。そして、近代のヨーロッパ世界において自由の感情がもっとも強烈の場合の一つは、私にはまったく見当違いのように思われるのである。人は自分の私事については、自分が好きなように行動する自由をもたなくてはならない。だが、他人に代って行動する場合には、その他人のことが自分のことでもあるという口実のもとに自分が好きなように行動する自由は、与えられるべきではない。国家は、とくにその当人のみに関係する事項については各人の自由を尊重する一方、他人を支配する権力を個人に対して認めている場合には、その権力の行使に対しては注意深く監督していかなければならない。このような国家の義務は、家族関係の問題では、ほとんど等閑視されている。だが、人間の幸福に直接影響を及ぼす点では、これこそ他の問題をすべて合わせたものよりもさらに重要な問題である。夫の妻に対するほとんど専制的な権力についてはここに詳説する必要はない。この害悪を完全に除去するためには、妻が他のすべての人びとと同じ権利を与えられ、同じ法律の保護を与えられるだけで十分だし、また、この問題に関しては、不公平な既成の制度や慣習の擁護者たちは、自由の訴えを取りあげることはしないで、公然と権力の擁護者としてあらわれるからである。誤用された自由の観念が、国家がその義務を遂行しようとするに当ってその障害となるのは、子供に関する場合である。人びとは、子供とは、比喩ではなく文字どおり、親の一部であると考えがちである。したがって、親の子供に対する絶対的排他的支配に対して法律がいささかでも干渉を加えようとすることに対しては、世論は非常に警戒的で、親自身の行為の自由に対するほとんどいかなる干渉に対するよりも激しいものがあるほどである。このように人類の大多数は自由よりもはるかに権力の方を尊重している。たとえば、教育の場合を考えてみよう。国家がその国民として生まれてきたすべての人間に対して、ある水準までの教育を要求し、かつ強制しなければならないことは、ほとんど自明の理ではなかろうか?だが、そのことを臆することなく承認し、主張する者が果しているだろうか?一人の人間をこの世に送り出した以上、その人間に対して、この人生の中で他人に対しても自分自身に対してもその分を立派に果すことができるような教育を与えてやることが、両親の(現行の法律と慣習によれば、父親の)もっとも神聖な義務・フ一つであることは、ほとんど誰も否定しないだろう。だが、これは父親の義務であると異口同音にいわれていながら、わが国では、この義務の遂行を父親に強制しようとすることに対して、黙ってそれを聞き入れる者はほとんどいないだろう。子供に教育をつけさせるため、父親に対して一定の努力や犠牲を要求するどころか、このような教育が無償で提供される場合でも、それを受け入れるか受け入れないかは、父親の選択にまかされているのである! 肉体に対して食物を与えるだけでなく、精神に対しても教育や訓練を与えることができるという十分な見込もなしに子供を生むことは、不幸なその子供に対しても、また社会に対しても、一つの道徳的犯罪であるということは、まだ一般の承認するところとはなっていない。また父親がこの義務を果さない場合には、国家は、可能な限り、父親の費用負担で、この義務が果されるように取りはからうようにすべきだということも、まだ一般には承認されていない。
 国家には普通教育を強制すべき義務があるということが一たび承認されれば、国家は何を教えるべきか、またどのように教えるべきかという問題には終止符が打たれるだろう。この問題のために、今日、教育はさまざまな宗派や党派の単なる争いの場と化していて、実際の教育に費されるべき時間と労力が教育に関する論争のために浪費されているのである。すべての児童のためによい教育を要求するということに政府として態度を決めさえすれば、政府自らの手でわざわざそのような教育を提供する必要はない。政府は、親たちが望む場所と方法で教育を与えることを親たちに一任し、政府自身は貧困な児童の授業料を援助し、学費の負担者がいない児童の学費全額を支弁することで満足してよい。もっともな理由をあげて主張される国家教育に対する反対論は、国家による教育の強制に対してはあてはまらないが、国家自らの手による教育指導については正にそのとおりである。両者はまったく別の事柄である。国民の教育の全部または大部分が国家の手に委ねられることに反対する点では、私は人後に落ちない。個性的な性格や、多種多様な意見と行為の重要性について、これまでにいろいろ述べてきたが、その中には多種多様な教育の重要性も含まれる。多種多様な教育は同じように筆舌に尽くしがたいほど重要である。一律的な国家教育は、国民を鋳型に入れて互いに完全に同じようなものにしようとする仕組にすぎない。国家教育が・走ッをその中に流しこむ鋳型は、それが効率的で、うまくいけばいくほど時の政府を支配する勢力――それが君主であるか、聖職者であるか、貴族であるか、あるいはその世代の多数者であるかを問わず――の気に入り、精神に対する専制を確立し、自然の勢いとして肉体に対する専制をも生み出していくようになる。国家が創設し、国家によって統制される教育は、それが存在するとすれば、競争しあう多くの試みの中の一つとして存在すべきであり、他の試みをある一定の水準に維持していくための模範と刺激剤にする目的で実施されなければならない。だが、社会全般が非常に遅れていて、国家が加勢してくれない限り、社会としては自分で適当な教育施設を提供することはできないし、その意思もない場合には、もちろん政府は、二つの大きな悪のうち比較的小さなものとして、学校や大学の経営を引き受けてもよいだろう。それは、大規模な産業活動を行うのに適した形態の個人企業が国内に存在しない場合に、政府が株式会社の経営を引き受けてもよいのと同様である。だが、国内に政府の援助の下で教育の任に当ることができる資格を備えた人物が十分に存在している限り、たいていの場合、その同じ人びとが自ら進んでよい教育を提供しようとするはずである。ただし教育を義務的なものとする法律によってその人たちの報酬が保証され、学資を払えない人びとには国家が補助することが必要である。
 このような法律を実施に移すための手段としてもっとも適切なものは、すべての児童に対して行われ、かつ幼年時代に始められる公の試験であろう。一定の年齢を定めてすべての児童を試験し、彼らが読む力をもっているかどうかを確かめる。もしある児童に読む力が欠けていることがわかれば、その父親は、十分な弁解の理由がない限り、適度の罰金を課せられてよいし、この罰金は、必要とあれば彼の労働で代納させてもよいだろう。そしてその児童は父親の費用で学校に通わせられることになる。以後毎年一回この試験が行われ、問題の範囲は徐々に拡張され、その結果、一定の最小限度の常識の取得と、さらにはその保持が事実上強制されることになる。この最小限度の常識以上の知識については、すべての学科について任意的な試験が行われるべきであり、この試験で一定の水準に達したものは、すべてその証明書を請求することができるようにする。国家がこれらの制度を通じて世論に対して不当な影響を及ぼすことを防止するため・A試験を通過するために必要な知識は(言葉とその使用法のような、単に手段的な知識以上のものについては)、高級の試験においても、もっぱら事実と実証的科学のみに限られなければならない。宗教や政治やその他論争の的となっている問題についての試験は、それぞれの意見が真理であるか否かを問題とすべきではなく、これこれの意見はこれこれの根拠に基づいてこれこれの著者、宗派、教会によって主張されているというような事実問題のみを問題とすべきである。このような制度の下においては、青年たちは、論争の的となっている真理のすべてに関して、現在より悪い状況下におかれることはないだろう。彼らは現在と同様、あるいは国教徒として、あるいは非国教徒として育てられるだろう。国家は、ただ彼らが教育のある国教徒や、教育のある非国教徒であるように配慮するだけである。彼らの親たちが望むならば、彼らが他の事を学んだその同じ学校で、宗教を教えられることには何の妨げもない。論争の的となっている問題に関して国家が国民の結論を一方に片よらせようとすることは、すべて不正である。だが、ある個人が、与えられた主題に関して彼の結論を傾聴するに値いするものにするために欠くことのできない知識をもっていることを国家が確認したり証明したりすることは、極めて妥当なことである。哲学の学生としては、彼がロックとカントのいずれの説を採るにせよ、またどちらの説も採らないにせよ、この二人のそれぞれについての試験に二つながら合格すれば、それだけ有利だろう。また無神論者に対してキリスト教の明証論に関する試験を課すことは、彼がそれに対する信仰告白を強要されさえしなければ、非難される道理はまったくない。だが、高級な知識部門に関する試験については、受ける受けないは、完全に任意でなければならないだろう。資格に欠けるというので、政府がある人間をある職業から排除することが許されることになれば、たとえそれが教師の職業であっても、それは政府にあまりにも危険な権力を与えることになるだろう。したがって私は、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトと同様、次のように考える。すなわち、学位やその他科学的、専門的な技能に関する公的な証明書は、試験に出頭してそれに合格したすべての人に与えられるべきものであるが、このような証明書によって与えられるのは、世論がその証明書の証言に認めている重みだけであり、他の競争者に対するいかなる優位な立場も保・リするものではない、と。
 自由の観念のはき違えのため、親としての道徳的義務が認識されず、法律的義務も課せられていないのは、しかも道徳的義務には常にもっとも強力な根拠があり、法律的義務についても多くの場合同様に強力な根拠があるにもかかわらずそうであるというのは、単に教育の問題だけに限ったことではない。一人の人間をこの世に生み出すという事実そのものが、人間としての生活の域内においてもっとも責任のある行為の一つである。この責任を引き受けること――呪いであるかもしれず、祝福であるかもしれない一つの生命を付与すること――は、生命が付与されようとしているこの存在が、少くとも望ましい生存を営める見込みを普通程度にももっていないとすれば、その存在に対する一つの犯罪であるといわなければならない。人口過剰の国や、そのおそれのある国で、ごく限られた産児の数以上の子供を生むことは、彼らの競争によって労働の報酬を低減させることになり、労働の報酬によって生活しているすべての人びとに対する重大な犯罪となる。ヨーロッパの多くの国々では、結婚当事者が家族を扶養しうる資力をもっていることを証明できない限り、法律で結婚を許可しないことにしているが、このような法律は国家の正当な権力を逸脱するものではない。このような法律は、当を得ているか否かを問わず(これは主としてその土地土地の事情と感情いかんによる問題である)、自由の侵害として非難されるべきものではない。このような法律は、有害な行為――法律上の刑罰を加えることが適当とは思われない場合でも、当然非難の的となり社会的汚名の対象となるような、他人を害する行為――を禁止するために行われる国家の干渉である。だが、自由に関する今日流布している思想は、当人だけに関係する事項について個人の自由が現実に侵害されていても、やすやすとそれを認めている一方、個人がその嗜好に耽溺した結果、子供たちを悲惨な堕落した生活におとし入れ、そのような子供たちの行動が身近にいる人びとに影響を与えて、いろいろな害悪をもたらしているとき、その当人自身の嗜好に制限を加えようとしても、それを拒否する。このような自由に対する尊重の念の奇妙な欠如と、一方自由に対する奇妙な尊重の念とを較べあわせるとき、人間には、何びとにも苦痛を与えることなしに、独り楽しむ権利はまったく与えられていないが、他人に損害を与えてもよい権利は不可欠のものとして与えられ・トいるのだ、と思いたくもなるのである。
 私は、政府の干渉の限界に関する問題のうちの一つの大きな部門を、本書の最後の場所のために保留しておいた。それは、本書の主題と密接な関係を有してはいるが、厳密にいえば、それには属していないものである。これらの問題は、干渉を不可とする理由が自由の原理には依拠していない。すなわち、個人の行動の制限に関する問題ではなくて、個人に対する助成の問題である。ここで問われているのは、個人自身にまかせ、個別的に、あるいは自発的な団結によって、自分の利益を追求させるのではなく、代って政府が、個人の利益のために何事かをしたり、させたりすべきなのかどうかということである。
 政府の干渉が自由に対する侵害には当らない場合、政府の干渉に対する反対論は三種類に分けることができるだろう。
 第一は、同じ為さなければならないことにしても、政府によって為されるよりも個人によって為される方が、よりよく為されるだろうと思われる場合である。一般的にいえば、ある仕事を処理するのにもっとも適した人、あるいは、その仕事がいかにして、また誰によって処理されるべきかを決定するのにもっとも適した人としては、その仕事に直接利害関係をもっている人以上に適した人はいない。この原理にしたがえば、かつてはあれほど普通のことだった、通常の産業過程に対する立法府または政府官吏の干渉は否定されるべきものとなる。だが、この問題はすでに経済学者たちが十分に詳説したところであり、本書の主張する原理とは特に関係はない。
 第二の反対論は、われわれの主題により密接に関連している。多くの場合個人は標準的に見て、特定の仕事については、政府官吏のように巧みに処理することはできないが、それにもかかわらず、その仕事が個人自らの精神教育の一手段として個人によって為される方が、政府によって為されるよりも望ましい場合がある。それは、彼の活動力を強化し、その判断力を練磨し、その処理に委ねられた問題に彼を精通させる一つのやり方である。これこそ陪審裁判(政治的でない事件に関する)、地方や都市の自由な民主的諸制度さらには、自発的な協同団体による産業活動および慈善事業の経営などの、唯一ではないにしても、主要な長所なのである。これらの問題は自由の問題ではなく、それらが間接に意図しているところが自由の問題と関係をもっているにすぎない。それらは直接には能力開発の問題・ナある。国民教育の一部としてのこれらの諸問題について詳説することは別の機会に譲らなければならないが、それらは実に公民としての特殊な訓練を与えるものであり、自由な国民の政治教育の実際的な部分をなすものであって、彼らを個人的および家族的利己心の狭い世界から抜け出させ、共同の利益を理解し共同の事務を処理することに習熟させるものである。すなわち彼らに公共的な動機、あるいは半ば公共的な動機から行動する習慣をつけさせ、彼らの一人一人を孤立させるのではなく、互いに結合させるような目的に向って行動する習慣をつけさせるものである。このような習慣と能力がなければ、自由な政治体制は機能することも維持されることもできない。それは、政治的自由が強固な地方的自由の基礎の上に立っていない諸国においては、当の政治的自由が極めて移ろいやすいものだという事実によって例証されているとおりである。純粋に地方的な事務はその地方において処理すること、また大規模な産業活動は自発的に資金を提供した人びとの団体によって経営することは、本書ですでに述べた、個性的な発展と多様な行動様式にともなう利点を有していて、それだけいっそう推奨に値いする。政府の行為はあらゆるところにおいて画一化する傾向がある。これに反して、個人と自発的な協同団体には、さまざまな実験と、限りない多様な経験がともなっている。国家の為しうる有用な仕事は、多数の試行の結果であるさまざまな経験の中心的貯蔵庫となり、さらにその活発な伝播者、普及者となることである。国家自身の実験以外、一切の実験を拒否するどころか、それぞれの実験者が他人の実験から恩恵を受けることができるようにするのが国家の仕事である。
 政府の干渉を制限しなければならない第三の、しかももっとも説得力のある理由は、不必要に政府の権力を増大すると、重大な害悪をもたらすことになるということである。政府の既存の機能の上に新たな機能が付け加えられるたびに、さまざまな希望と恐怖とを左右する政府の影響力はより大きく広まり、国民の中の活動的野心的な分子はますます政府や、政権をねらっている政党の追従者に化してしまう。道路、鉄道、銀行、保険会社、大株式会社、大学、公共の慈善事業がすべて政府の一部局になれば、またその上に、諸々の市政機関と地方官吏が現在彼らに移管されているすべての職務とともに中央政府の一部局になれば、さらにまた、これらのさまざまな事業のすべて・フ従業員が政府によって任命され、給料を支給されて、立身出世をことごとく政府に頼るということになれば、出版の自由と立法府の民主的構成がいかに備わっていても、わが国や他のいかなる国も単に名前の上だけの自由な国にすぎなくなるだろう。そして行政機構が能率的かつ科学的に構成されればされるほど――行政機構を運営するのにもっとも適した手腕と頭脳とを獲得するための仕組みが巧妙となればなるほど、――この害悪はますます大きくなるだろう。イギリスでは最近次のようなことが提案された。すなわち、政府の職務担当者としてできる限りもっとも聡明で教育ある人物を獲得するために、全員を競争試験によって選考すべきであるというのである。この提案に対し賛否両論の多くの発言があり、また多くの論説が書かれた。反対論者によってもっとも強く主張された議論の一つは、次のようなものである。すなわち、国家の終身官吏の職業は最高級の才幹を有している人びとを引きつけるだけの有望な俸給と地位を提供できないし、このような人びとは、自由職業や、会社や他の公共団体での仕事の中に、つねにより魅力のある成功の道を見出すことができるだろう、というのである。この議論は、官吏競争試験制の提案を支持する人びとが、この提案の主な難点に対する弁明として用いたとしても、決して意外とはされなかっただろう。このような議論が提案の反対論者から出されたということは、実に不思議なことである。反対論で力説されていることは、実は提案された制度の安全弁に他ならない。実際にその国の卓越した才幹がすべて政府の公職に吸引されうるとすれば、そのような結果をもたらすおそれのある提案は、当然不安の念を呼び起さずにはおかないだろう。組織的な協力や壮大な包括的計画を必要とする社会の事業のあらゆる部門が政府の手中におかれ、政府の官職がことごとくもっとも有能な人びとによって占められるとすれば、純粋に思弁的な頭脳は別として、国内の広い教養と練達した知性のすべてが膨大な官僚群の中に集中し、社会の残りの人びとは何もかもひたすら彼ら官僚群に頼ることになるだろう。すなわち、一般国民は自分たちがやらなければならないすべてのことに関して、官僚たちの指導と命令を期待し、能力と野心をもつものは立身出世をそこに求めるだろう。この官僚群の列の中に入ることを許されること、それを許されたときにその中で立身出世することは、野心の唯一の目的となるだろう。このよ・、な制度の下では、一般国民は実際的経験に乏しいため、官僚群の職務執行のやり方を批判したり阻止したりする能力がないだけでなく、たとえ専制制度の下における偶然の事情によって、あるいは民主制度の下における自然の作用によって、時には革新的傾向をもった統治者が最高の地位に押し上げられることがあっても、官僚群の利益に反するような改革は決して実現されることはない。実情をつぶさに見ていた人びとの記録の中に示されているように、ロシア帝国の状態はまさしくこのような憂うつなものである。皇帝自身が官僚群の前には無力なのである。皇帝は官僚群の中の誰でもシベリアに流謫することはできるが、官僚群なしでは、また彼らの意思に反しては統治することができない。彼らは、皇帝のあらゆる命令に対して、単にその実行をさし控えるだけで暗黙のうちに拒否権を行使できる。より進歩した文明と、より反抗的な精神を有している国々では、国民はいつも万事を政府がやってくれるものと期待するようになり、あるいは、政府の許可ばかりか、やり方までも政府に教えてもらわなければ、少くとも自分からは何事も行おうとはしないようになっているので、彼らの上に振りかかってくる災害を自然とすべて政府の責任にするようになる。その災害が忍耐の限度を越える場合には、政府に反抗して立ちあがり、革命なるものを起す。そこで、誰かある人物が、国民から正当な権限を与えられ、あるいは与えられないままに、一躍して主権者の地位に上り、官僚たちに命令を下す。そして万事は以前とほとんど同様に進行していく。官僚は依然として変ることなく、他の誰も彼らにとって代ることはできない。
 自分たちのことは自分たち自身で処理することに慣れている国民の間では、事態は右とは非常に異なった様相を呈している。フランスでは、国民の大部分は軍務に服したことがあり、その多くは少くとも下士官の階級をもっているので、民衆の暴動に際しては、いつも暴動を統率する能力をもち、かなりの程度の戦闘計画を即座にたてることができる人物が何人か見られる。フランス人は軍事に長所を発揮しているが、一方あらゆる種類の市民的事務に長所を発揮しているのはアメリカ人である。アメリカ人は政府なしの状態にしておいても、誰でも即座に政府を作ることができるし、政府の事務でも他の公共の事務でも、十分な知性と秩序と決断力をもって処理していくことができる。およそ自由な国民はこのようなものでな・ッればならない。また、このようなものとなりうる国民は確実に自由であるはずである。このような国民は、どのような個人や団体が中央政府の指導権を握ったからといって、それらによって奴隷化されるようなことは決してないだろう。どのような官僚群でも、このような国民に、好まないことをさせたり、耐え忍ばせたりしようとしても、決してできない。だが、万事が官僚を通じて為されるところでは、官僚が真に反対することは、絶対に為されることはない。このような国家は、国民の中の経験のある人びとと実際的な才能のある人びととを組織して、その他の国民を統治するための一個の統制のとれた団体に作りあげたものである。このような組織がそれ自体完全であればあるほど、またこのような組織が人民のあらゆる階層から最大の能力ある人びとを自分の方に引き入れ、彼らを組織のために教育するのに成功すればするほど、官僚群の成員たちを含め、全国民の奴隷化はますます完全となる。支配者である官僚たちが彼らの属している組織と規律の奴隷であることは、被支配者たちが支配者の奴隷であるのと異なるところはないからである。中国の官人が専制政治の道具であり、産物であることは、もっとも下層の農民がそうであるのと少しも異なるところはない。イエズス教団そのものは、その成員たちの集団としての力と地位を高めるために存在しているにもかかわらず、個々のイエズス教徒は、教団の奴隷となって極度に賤しめられた状態におち入っているのである。
 なおまた忘れてならないのは、その国の主だった能力者をすべて統治団体の内に吸収することは、おそかれ早かれ、統治団体そのものの精神的能動性と進歩性にとって致命的となるということである。役人の団体というものは人間の結合体であるから――他の組織体と同様、大体において一定の規則にしたがって動いていかざるをえない一つの組織体を運営していくのであるから――きまりきった惰性的な日常仕事の中に埋没しようとする絶えざる誘惑の下にある。あるいはまた、彼らが時によってこのような単調さから抜け出ようとすることがあっても、その場合には、官僚群の指導者の単なる思いつきにすぎない、吟味不十分な未熟な計画にとび込んでいこうとする不断の誘惑にさらされている。一見正反対に見えて実は密接に関連しているこれら二つの傾向を抑止できる唯一の方法、すなわち、この団体自体の能力を高い水準に維持していくための唯一の刺激策は、団・フの外にいる同等の能力の所有者から絶えず注意深い批判を受けることである。したがって、このような能力の保持者を育成し、重大な実際問題に関して適確な判断を下すことができるようになるために必要な機会と経験を彼らに提供する場が政府以外に存在することが不可欠となる。われわれが今後もずっと練達した敏腕な官僚群――とりわけ、新しいものを創造することができるとともに、いろいろな改良を喜んで採用しようとする官僚群――を保持しようとするなら、われわれの官僚政治が衒学者支配に堕することを望まないなら、人びとを統治するのに必要な諸能力を形成し開発する仕事のすべてを官僚群に独占させてはならないのである。
 人間の自由と進歩にとってこのように恐ろしい害悪――衒学者支配――はどの時点から始まるのか、社会の幸福を阻もうとしている諸々の障害を除去するために、社会の承認した指導者の下に社会の力を結集することによって得られる大きな利益、その利益を前述のような害悪が圧倒するようになるのはどのような場合か、それらをまず見きわめること。そして、才能と知識の集中によって得られる利益をできるだけ確保しながら、しかも国民全体の活動力のうち政府機関に導入する部分をあまり大きすぎないようにすること。これらは統治の技術においてもっとも困難で複雑な問題である。これらはかなり細目の問題であって、数多くのさまざまな事柄を念頭におく必要があり、したがって、これについて絶対的な規則を規定することは不可能である。だが私の考えでは、安全を見こんだ実際的原理であり、常に目の前にかかげるべき理想であり、右に述べた困難な問題を克服するためのあらゆる取り決めを吟味するための規準であるものは、次のような言葉で表現することができると思われる。すなわち、能率を害しない限り最大限に才能を分散させること、ただし情報は能う限りこれを集中し、これを中央から配布すること、というのである。このようにして都市の行政においては、ニューイングランドの諸州のように、直接に利害関係のある人びとに委ねない方がよい事務はすべて、その地方民によって選出された各部の吏員の間に極めて細かく配分されることになる。それと同時に地方の事務の各部門ごとにそれぞれ中央の監督官庁が存在し、これが中央政府の一部局を構成する。このような監督官庁は、各地方における当該部門の公共事務の処理や、同じような公共事務の外国での実施例や、政治学の一・ハ原理などから得られたさまざまな情報と経験を一つの焦点のように集めることになるだろう。この中央官庁は、当該部門の公共事務の処理のすべてについて知る権利をもつべきであり、またこの官庁の特有の義務として、一地方で得られた知識を他の地方にも利用させるようにしなければならない。その地位は高く、視野は広くて、一地方の区々たる偏見や狭隘な見解にとらわれないから、その勧告は自ら大きな権威をもつことになる。だが、常設機関としてのこの官庁の実際上の権力は、地方官吏の手引きとして設けられたいろいろな法律を地方官吏に遵守させるということ以上に出てはならないだろう。一般的規則に規定されていないすべての事項に関しては、地方官吏は、その選挙区民に対して責任を負うという条件の下に、自分自身の判断にしたがって行動しなければならない。地方官吏が行政行為の規則を侵した場合には、彼らは法律上の責任を負わなければならないし、それらの規則そのものは立法府によって制定されるべきものである。一方中央行政当局はそれらの規則の実施を監視するにとどまり、それが適切に実施されていない場合には、事件の性質に応じて、あるいは裁判所に対して法律を守らせるよう要求し、あるいは選挙区民に対して、法律の精神にしたがって法律を実施することを怠ったそれらの地方官吏の罷免を要求しなければならない。救貧法実施監督局が全国の救貧税管理員に対して行使しようとしている中央監督権は、その一般的概念においては、右に述べたようなものである。だが、救貧法実施監督局がこのような限界を超えてどのような権力を振っても、あの特殊な場合には――単に一地方のみならず全国に対しても重大な影響を有している事項に関して根深い慣習となっていた目こぼしを矯正するためには――正当であり、また必要でもあった。いかなる地方にもせよ、見のがしによって貧民の巣窟となり、必然的に他の地方にまで貧民を氾濫させ、労働者社会全体の精神的肉体的状態を悪化させてもよいというような道徳的権利は与えられていないからである。救貧法実施監督局が有している行政上の強制権と、これに付随する立法権は(ただし、これらの権力は、この問題に関する世論の状態のため、事実上ほとんど行使されていない)、非常に重要な国家的利益に関する場合は完全に正当だとはいえ、純粋に地方的な利益に対する監督の場合には、まったく当を得ていないだろう。だが、すべての地方のために情報と指導・与える中央機関は、すべての行政部門について等しく有益なものである。政府が、個人の努力と発展を阻害することなく、これを助成し刺激するような能力をいくらそなえていても多すぎることはない。弊害が始まるのは、政府が各個人や団体の能動性や能力を呼び起すのではなく、政府自身の活動力をもって彼らの活動力に代えようとするときである。すなわち、政府が情報や忠告、場合によっては非難を与えるというのではなく、彼らの活動を束縛し、あるいは彼らを脇に追いやり、彼らの仕事を政府自ら引き受けようとするときである。国家の価値は、結局は国家を構成している個人の価値によってきまる。したがって、国家が少々の行政的技能や、細かな実務をやっていれば自然と身についてくるそのような技能らしきものを先にし、国家の構成員である個人の精神的発展や向上という利益を後まわしにするようなことであれば、また、国家が、たとえ有益な目的のためとはいえ、自分の手の中のいっそう御しやすい道具にするため、構成員の成長発展を阻止するようなことがあれば、このような国家は、矮小な人物をもってしては、偉大な事業は決して為しとげられないことを、やがて悟ることになるだろう。また、国家があらゆるものを犠牲にして作りあげた完全な機構も、活力の不足のために、結局何の役にも立っていないことを、悟ることになるだろう。この活力は、国家が機構をいっそう円滑に動かすために、自ら進んで放逐してしまったのである。

連絡先 : ichikawn(at)cc.saga-u.ac.jp ( (at) を@に変更して送ってください)